http://www.democracynow.org/2008/10/20/eugene_jarecki_on_the_american_way)
■アイゼンハワー大統領の最後の挨拶 - 「軍産複合体」への警鐘 (ユージン・ジャレキが語る)
Eugene Jarecki on “The American Way of War: Guided Missiles, Misguided
Men, and a Republic in Peril”
(エイミー・グッドマン司会のTVトークショー「Democracy!Now」2008/10/20より一部抜粋)
(グッドマン):
映画監督で著作家のユージン・ジャレキは、「(大統領選に)投票するのは不可欠なことだが、それだけでは
足りない」と言います。 彼は著書でこう述べています。
「私たちが自分の一票を、この国の政治を行う過程に対し絶えずそしてひるむことなく行う、自らの関与の一端であると
みなさないのであれば、その票は無駄になってしまう。 なぜかと言えば、この国を今のような経済的、軍事的、政治的
な崖っぷちに立たせてしまっている勢力は、国政の仕組みに大きな力を振るうので、たった一人の大統領候補とか
議員の一集団とかが、どういう意図であれ、それらの勢力に立ち向かうことは、そういう勢力が抑え込むことができない
ほどの、公衆の信任を受けていなければ、とうてい不可能だからだ。」
ドワイト・アイゼンハワー大統領退任のテレビ演説 (1961):
「アメリカの皆さん、今夜私は大統領を退任するお別れの挨拶と共に、今の私の思いをお伝えしたいと思います。
われわれは否応なく、広大な労働人口を持ち、常時生産する軍需産業を創り上げねばなりませんでした。
350万人の男女が現在、国防関連事業に直接雇用されています。 この事態が経済的に、政治的に、そして
宗教上およぼす影響力の全体は、この国のあらゆる都市、あらゆる州の家庭、連邦政府のあらゆる局で感じら
れます。 このような事態になる必然が避けられなかったことはわかります。 しかしそれでもわれわれはこの状況
が持つ重大な意味合いを理解しておかねばなりません。 政府の会議の場で軍産複合体が、それ自体求めようと
求めまいと、許されない影響力を獲得しないように、われわれは見張らねばなりません。 場違いな勢力が強くなり
国家に災いをもたらす可能性は今も存在し、今後も永続するのです。」
(原文: My fellow Americans, this evening I come to you with a message
of leave-taking and farewell and
to share a few final thoughts with you, my countrymen. We have been
compelled to create a permanent
armaments industry of vast proportions. Three-and-a-hafl million men
and women are directly engaged in
the defense establishment. The total influence, economic, political,
even spiritual, is felt in every city,
every state house, every office of the federal government. We recognize
the imperative need for this
development, yet we must not fail to comprehend its grave implications.
In the councils of government, we
must guard against the acquisition of unwarranted influence, whether
sought or unsought, by the military-
industrial complex. The potential for the disastrous rise of misplaced power exists and will
persist. )
(ジャレキ):
この挨拶の瞬間は信じがたいものです。 アイゼンハワーは元帥から大統領になった人物ですから、第2次大戦の英雄が
共和党の大統領を2期つとめあげたわけです。 そして彼は、民主主義に対するこの異常な脅威について、同胞アメリカ人
に警告するために、大統領としての最後の数分を割くわけです。 その脅威とは、軍産複合体であり、その言葉こそ彼が
その夜作りだし、40年立つ今われわれに受け止めさせ、彼が本当に何を意味したか、そして今日どうその考えを働かせるか
を託す言葉なのです。・・・・・
・・・・・
アイゼンハワーは元帥で共和党大統領になりましたから、戦場の最前線も、ワシントンでの最高レベルでの駆け引きも、とても
よく理解していました。があるとき大統領執務室で彼が次ぎにように言うのを聞いたものがいます。 そのときアイゼンハワーは
国防族が公共政策を思い通りに操って、彼の政策を自分たちの支配下に置いてしまう、と彼が言った、そのやり方にひどく
腹がたっていたので、執務室の中で大声で言ったのです、「この国の軍隊のことを私ほど知らない者が大統領の椅子に
座るときには、神よ、どうかこの国を助けたまえ。」
(中略)
(ジャレキ):
B−1爆撃機はこの国のあらゆる州で、その部品が一種類ずつ生産されます。なぜでしょう、そのような生産は効率が
よくはないのに。 だからそれは、ある目的にかなっているに違いないのです。 そしてわかることは、そういう生産方式
が果たす目的とは、B−1爆撃機がそれに応じて生産されている、政治工学というプロセスです。 飾った言葉ですが、
どういうプロセスかといえばそれは、特定の兵器生産システムをつくるための契約や下請け契約を、できるだけ多くの州に、
つまりできるだけ多くの連邦議会の選挙区に分配することです。 生産をできるだけ効率的にすることではなく、むしろ
生産システムをできるだけ多くの選挙区に置く。 そうすることで、そのシステムへの見直しが起こりそうなときに、生産に
従事している労働者全部が、それについて行動を起こすように。 だからその結果、B−1爆撃機が本当に必要なのだ
ろうか、これだけの税金をかけている必要があるのだろうかといった疑問が社会で生じた場合でも、生産を続行させ
るためのまとまった選挙民が連邦議会に存在しているわけです。
[TUP-Bulletin] 速報788号 Date: Tue, 28 Oct 2008 17:35:20 -0000 From: tup_bulletin <tup@live.jp>
関連情報: 在日米国人記者ブライアン・コバート氏、アメリカと9条を語る
「戦争する国」アメリカと、日本の憲法9条---「我々は解放者として歓迎される」 於:川西市中央公民館
○戦争を始めるための口実 「自由と解放」
さて、次に「自由と解放」という考え方が、戦争を始めるための口実として、どのように利用されていくか、一つの例を
挙げたいと思います。あえて、最初にはいつのことか、言いませんので考えてみてください。
そう遠い昔でもない、ある年の1月、アメリカ政府の内外から集った極右派の大物著名人からなる「ネオコン」のグループが、
アメリカ大統領に手紙を送りました。この手紙でネオコンは、サダム・フセインがアメリカ、ひいては世界にとっての大きな
脅威であると警告し、即刻、排除されるべきだと強く要請しました。
イラクについて感情的な公聴会が何ヶ月も行われた後、アメリカ議会の上下両院は政府に対し、サダム・フセインの打倒を
要請しました。理由は、フセインが国際的な人権侵害をしているということ、そして国連の兵器査察官に協力しないということ
です。10月、米国下院は二大政党の圧倒的な支持により、「イラク解放法」なる法案を通過させました。賛成者には著名な
民主党の自由主義者、例えばケネディ一族のエドワード・ケネディ氏やデニス・クシニッチ氏も含まれています。二日後、
上院も、全員一致でこの法案を通過させました。
米議会は間もなく、一致して「イラク解放法」をアメリカ大統領に提出しました。そして予想どおり大統領はこの法案に署名し、
法案は法律となりました。いよいよアメリカ政府は、公に、イラクのいわゆる「政権交代」を支持する政策を打ち出したのです。
アメリカ大統領は、夫人からの支持もあり、この新しい法律はアメリカがサダム・フセインを倒し、イラクの人々がいわゆる
「民主化」の道を開くのに役立つ、と述べました。それから2ヶ月しか経たないうちに、大統領は米軍によるイラクへの爆弾
攻撃を承認しました。さらにその2ヶ月後、大統領はアメリカ国民に、いわゆる「アメリカの国益、さらには自由を愛する世界の
人々を守るために、我々がしなければならないこと」への理解を求めました。
さて、このシナリオにおける大統領が誰か、そしてこれが何年のできごとかを言っていただける方はありますか。
もし、ジョージ・W・ブッシュという答えなら、残念ながら間違いです。大統領はビル・クリントンで、時は1998年、そして当時
の大統領夫人はヒラリー・クリントンです。大統領が承認した軍によるイラク攻撃は、「偶然にも」クリントン大統領とモニカ・
ルインスキーとのスキャンダルが米議会と人々の前に明らかにされたのと同時期でした。「1998年イラク解放法」に署名
することでブッシュが数年後に不法にもイラクを侵攻する法的根拠を与えたのは、実のところ、クリントン大統領なの
です。ブッシュはまさにこの法律をイラク侵攻のために引用したのです。
私がここで強調したいのは、破壊的な軍の力と政治介入で他国の「解放」を援助するということが、アメリカの政党
のどちらか一方ではなく、いわゆる「二大政党制」による政策だということです。この実例はアメリカの歴史に多く
見ることができます。実際、アメリカに限らず他の国の歴史にも、強国や帝国が他の国に侵略し、「解放」の名の下に慈悲
深い親切な仮面をかぶって、人々を占領下においたり植民地化するという例は、いくつもあります。
911事件直後のアメリカを考えると、報復を求める声がアメリカの社会を駆け巡ったことを思い出します。あのとき私は
アメリカにいました。そしてジャーナリストとして、いかにアメリカのニュースメディアがブッシュ大統領を急がし、即刻何かを
するよう要求したかをよく覚えています。多くの人々が9・11を「第二のパール・ハーバー」と呼んでいました。クリントン
その他の過去の大統領の元で、こうした経緯がどうなるかを見てきた人々には、その後の予想がつきました。そして予想
に違わず、間もない2001年10月7日、アメリカはアフガニスタンに侵攻したのです。オサマ・ビン・ラディンとその仲間を
捕まえるのみならず、イスラム原理主義タリバンの支配下で奴隷のような生活を送っていたアフガニスタンの人々、特に
女性を解放するという名目でした。
アメリカはアフガニスタン侵攻の中で、明瞭に「解放」という言葉を使用しました。そして、アメリカ政府がイラクに目を移すに
従って、「解放」という言葉は、ニュースメディアというメガフォンを通してブッシュ政権から人々へ送られるメッセージの中に、
体系的に組み込まれました。アメリカ政府のイラク「解放」について、時間を追って簡単に見てみましょう。
2003年3月16日に、チェイニー副大統領は人気のあるテレビネットワーク、NBC(これは大手の軍事請負業者、ゼネラル・
エレクトリック社が所有しているのですが)、このNBCで、全国の視聴者に向けて、こう述べました。「我々は解放者として
歓迎されると信じている。・・・私たち(大統領と私)は、イラクの人々がサダム・フセインの排除を望んでいると読み
取った。その目的のために米軍が行くならば、解放者として歓迎されることに疑いはない」。 その3日後、アメリカは
イラクに不法侵攻しました。このチェイニーの信じがたい傲慢な言葉、「我々は解放者として歓迎される」こそ、私が今日の
スピーチのタイトルとして借用したものです。
2003年3月のイラク侵攻から数ヶ月後に行われた、アメリカ国内で成人を対象にした世論調査で、「イラク人の多くは、
イラクにいる米軍を解放者あるいは、占領者、どちらと見なしていると思いますか」という質問がありました。約40%の
回答者は「占領者」と答え、36%が「解放者」と答えました。24%は無回答でした。また、同じ調査の別の質問「もし、
イラク人のほとんどが望んでいない場合、米軍はイラクに駐屯すべきだと思いますか」への最多の回答は、45%で、
「現地の人々が望むと望まざるに関わらず」米軍は駐屯すべき、でした。多くのアメリカの一般市民が、アメリカがイラクの
民主化のために、解放者として駐屯していると思っています。
○スメドリー・バトラー元海兵隊幹部 「戦争はいかがわしい商売だ」
さて、ここまで、私は皆さんに、アメリカの軍や政府の高官がいかに人々にウソをつき、誤った道に導いてきたかについて
話してきました。しかし、歴史をよく見ていけば、アメリカ史の「隠れた」側に、時折、注目に値する例外を見つけることが
できます。実は20世紀のアメリカに、高い地位に昇った軍人でありながら、「システムとしての戦争」を強く批判した人物
がいました。そして、その発言は現在でも耳を傾ける価値のあるものです。彼の名は、スメドリー・バトラーといいます。
彼は海兵隊の少将で、1940年に58歳で亡くなった時点で、アメリカの歴史上、最も多くの勲章を受けた人物でした。
沖縄県内の海兵隊基地の総司令部の名称、「キャンプ・バトラー」は、このスメドリー・バトラーの名前から付けられている
のです。彼が、米軍と軍需産業界とのショッキングな真実を当時、明らかにしたことを考えると、米軍が、今も日本で彼の
名前を使っているのは皮肉なことです。
数年前、私はカリフォルニアに住んでいまして、週に一度放送されるラジオ番組の共同プロデューサーとして働いていました。
リスナーが電話をかけてきて、その日のゲストと話ができる、生放送の1時間番組でした。私は、有名な言語学者でアメリカ
の外交政策の評論家である、ノーム・チョムスキー教授に、アメリカ同時多発テロ2年の特別ゲストとして電話出演を依頼
するメールを送りました。チョムスキー教授は、快く引き受けて下さり、その夜の放送で、彼の出演はリスナーに温かく迎え
られました。
番組に電話をかけてきた地元リスナーに、モーリーンという女性がいたことをよく覚えています。彼女は、10代の子供たちが
問題を起こさないようにする、放課後プログラムの責任者でした。モーリーンは、以前このプログラムで世話をしていた子供で、
今は20歳になる若い女性が、海兵隊に入るつもりだと言ってきた、と言うのです。それを聞いて本当に落胆してしまったと。
モーリーンは、チョムスキー教授に、アドバイスを求めました。確実な収入があって、教育が受けられ、保険にも入れるなど、
とても魅力的に見えるから軍隊に入ろうと思う、そんな状況にあるアメリカの若者に何と言いますか、と。
チョムスキー教授の答えの、一部分をご紹介します。
「私たちが心配しなければならないのは、そんな選択を若者にさせてしまうような状態だと思います。それには、あなたが
おっしゃったことも含まれます。恵まれない状況にある人には多くのチャンスがない社会構造であるという事実です。また
イデオロギー的側面もあります。つまり、海兵隊員になって自分が今、何をしているのか、認識できないようなことです。
私は、海兵隊に入隊する者全員が、スメドリー・バトラーの海兵隊の体験の本、その中で「ウォールストリートの
ための強盗」だとバトラーは言っていましたが、この本を必ず読むようになればいいと思っているんですよ。彼は、
たくさんの経験をしましてね・・・。長年にわたって、世界中で海兵隊はいったい何をしてきましたか。振り返ってみれば、
本当に悲惨なものです。」
チョムスキー教授のアドバイスには幾分驚きましたが、数日後、私は地元の大学の図書館でスメドリー・バトラーとは
どういう人物だったのか調べてみました。そこで分かったことは、とても意外な事実でした。
バトラー氏は、兵士として20世紀初頭に幾度ものアメリカの戦争に参加し、出世街道を歩み、第一次世界大戦では、重要な
将校として頭角を現しました。戦闘中の勇敢な行為に対し、何度も勲章を受け、1931年には少将という高い地位で退役しま
した。しかし、退役後の平穏な暮らしを始めてわずか数年後の1934年、彼は、米国議会で証言し、全米を震撼させ
ました。ニューヨークのウォールストリートの、ある裕福なエリート実業家から、接触を受け、当時のルーズベルト政権
を転覆させる武力クーデターを持ち掛けられた、と証言したのです。
その裕福な実業家は、バトラー氏に、強力な軍事支援と財政支援、さらに、好意的なマスコミ報道を約束するとして、
ルーズベルトへのクーデターを率いるよう持ち掛けました。その人物とバトラー氏の、この内密の話し合いは1年ほど
続けられましたが、ついにバトラー氏は、そのような国粋主義的クーデターに対する、現実的な危機感から、その計画
と計画者の名を議会に公表する決意をしたのです。議会はバトラー氏の証言を信じましたが、誰も起訴されず、捜査も
進められませんでした。この事件はアメリカのマスコミも、すぐに報じなくなりました。
それでもバトラー氏は、自分の最大の義務は米国憲法を守ることだと感じ、クーデター計画について知っていることを公的に
発言し続けました。また、アメリカが海外で起こしている戦争の真実についても語り始めたのです。1935年に『War is a Racket
戦争はいかがわしい商売だ』という、彼が戦い率いてきた戦争の裏で、汚い金融取引があったことを暴露した本を上梓しました。
それがノーム・チョムスキー教授が私のラジオ番組の中で、海外で戦おうと海兵隊に入隊する決断をする前に、全ての若者が
読むべきだ、と話した本だったのです。この本の中で、バトラー氏は「自分は33年間海兵隊に勤務したが、その間、ほとん
どは大企業、ウォールストリートの銀行家の高級用心棒、もしくは資本主義に雇われた暴力団であった。」と書いています。
また、本の中でアメリカのトップ企業が実際に戦争から利益を得ていること、アメリカの納税者がどのように戦争のたびにその
費用を払わされているか、に焦点を当てていました。企業の実名も出ていました。そして、彼は、そんな腐敗したシステムを
どのように打ち砕けばいいのか、いくつかの提案で締めくくっていました。
バトラー氏の提案の一つは、「武器を取って戦いに赴く若者に、戦争をすべきか否かを決定させるべきである」というもの
です。彼は、開戦前には投票権のある若者に、いわば「限定的国民投票」を行わせるような法制度を作るべきだ、と述べ
ていました。若者こそが戦闘に加わり、海外の戦争で命を落とすかもしれないのだから、そんな若者が投票し、今から
宣戦布告すべきかどうか自ら決断できるようにするべきであると主張しました。
バトラー氏はこういった考えをまとめた著書を出した、わずか5年後に亡くなりました。パール・ハーバーも、広島も長崎も
起きる前のことです。彼の言葉は、今の時代のアメリカには無邪気であるようにさえ、捉えられるでしょう。