シリーズ5 倉兼一二の人生記録  
        
               「獏の戦争 最終章・その5」    →その4 →その3 →その2 → その1 著者紹介  


9. 戦争の終わった日

 朝早く中隊本部より、「各小隊全員、中隊本部に集合すべし」との連絡があり、中隊本部に全員集結する。中隊長は防空壕から離れることのない人である。みんなは裸でいるので真っ黒であるが、中隊長は壕の中の本部に詰め切りである。だから色も白い。命を大切にする人である。

 敗戦の報告であった。本当のところ別に驚くこともなかった。有終の美を持って勝てるなんて相手ではない。我が隊長・長田大尉も、前・工藤隊長も人事異動でニューギニアまで来た人であるが、その最初の訓示のときに「この戦争は、有終の美を持って終わるような戦争ではない。うまく行って五分五分ぐらいであろう。だから命を大切にして欲しい」と話されていた。よくぞこのような訓示をされたものと、後から考えてみて関心したものだ。大局を見据えていた長田隊長や工藤隊長に比べ、軍部上部の無知蒙昧さが国民を塗炭の苦しみに追いやることとなった。当日中に武器はすべて中隊本部に集められた。これからどうなるか分からぬが、とにかく何もなくなったことは確かだった。

 敗戦後三日ほどたった頃だと思う。海軍警備隊司令官・本山部隊長が自決された。こんな戦争はしたくなかったろうに・・・
痩せ型の好々爺で海軍少将である。戦争などなければ孫と一緒になって、老後を楽しんでいられたものを・・・・



http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/shusen.htm   「終戦」)
http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/19450815.htm「私の八月十五日」
http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/19450815_2.htm#enomoto「そうだ 帰れるんだ」榎本翁市

(抜粋

隊長が宿舎から出て来た、週番下士官が早速「気を付け!」と号令をかけると、隊長は大きな声で、だが静かに、「そのまま、そのままでよろしい」と制し、しばらく沈黙が続いた。短い一時であったが、兵隊は、隊長は何を伝えようとしているのだろうと戸惑った。突然隊長が割れるような大声で、「気を付け!」兵隊は飛び上がるほど、吃驚して思わず不動の姿勢をとった。

 隊長は厳粛な声で、「天皇陛下は・・・」と言って、声を続けた。「本日終戦の御勅旨を全国民及び全世界に表明された、戦は終わった。しかし我が小隊は別命が降りるまで現在通りだ。戦は終わっても軍人として、軍紀を守り規律を厳守すること、以上」言い終わると、いつしか暗くなった夕暮れに消えるように宿舎に戻られた。呆然と立儘していた週番下士官が、慌てて姿の見えない隊長に向かって「隊長殿に敬礼!」と声を上げた。後は何も言わず、外の下士官と共に下士官兵舎の方へ去っていった。困ったのは、兵隊に直れの号令がないので、敬礼した手のやり処が無く、そのままバラバラと解散した。夕食の食事当番兵が炊事場に急ぐのが見えた。

 いずれの班も同じ様だったと思うが、班に帰ると我が班も嵐のようだった。物を投げるもの、泣きながら床を叩く者、様々な光景が繰り広げられた。食事当番が大声で「食事!食事!」と叫ぶと、今までの嵐は、急転直下で声を出す者も居なくなり、皆急ぎ薄暗い椰子油の燈火が照らし出されている炊事場めがけて駆けだした。一番最初に食べ物を見た兵隊が。「万歳!」と大声を上げた。つられるように次から次と全員一斉に理由も判らず「万歳!万歳!」と二ッ葉椰子の小屋が吹き飛ぶかと思うような大声となった。それもそのはず、今までの食事はサツマイモの茎を刻んで、それに小指ほどの大きさの藷を小さく刻んで入れ、塩味の付いた煮物が飯盒に八分目ほどだったのに、何と今夜の夕食は、親指ほどの太い藷が丸ごと二個も付き、それに椰子の芽とパパイヤの白根を刻み、塩で揉んだお新香が付いている。それに気付いた兵隊は万歳どころか、今夜は口を開く者もなくみな平らげて、散り散りに兵舎の方へ引き揚げていった。。。。。。。。。。

 自分も食べ終わって真っ暗な兵舎に帰ってきたが、空襲をおそれて明かりを灯すことが禁じられていたので、夜の暗闇で、只寝るだけだった。みんな串刺しのようになって、ぼろぼろの背嚢とか、土だらけの毛布を枕代わりにして寝ていた。自分も背嚢を枕に機銃で穴だらけの毛布を腹が冷えないように巻き付け、何時も寝ているように横になった。。。。。。。。。。。自分は隣の鼾を聞きながら、ああでもないこうでもないと考えを巡らし、結局、走馬灯のように頭の中を駆けめぐるだけで、また元の考えに戻ってきていた。最後に、「そうだ帰るんだよ、帰れるんだ。俺は帰る、五黄の虎だよ、信念を忘れては駄目だ」とまとめ、眠りについた。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%8B%E3%82%
A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ウィキペディア「ニューギニアの戦い」アイタペの戦い

6月、ウェワクには第18軍の残存兵力が集結していた。東部ニューギニアに投入された総計16万名の兵力は、このとき54,000名にまで減少していた。残存部隊も、それまでの戦闘と補給途絶による飢餓と病気で、消耗した状態だった。620日、大本営は第18軍を第2方面軍指揮下から南方軍直属へ移し、「東部ニューギニア要域における持久」を命じ、積極行動の停止を促した。

しかし、安達軍司令官は最後の決戦としてアイタペ奪還を命じた。迂回した連合軍を放置できず、また、ウェワク地区で採取できる食糧の量では、54,000名を養うことは不可能だと判断されたからである。

日本軍は第20師団、第41師団、歩兵第66連隊の計2万人で、200キロ西方のアイタペへ向けて出撃した。これに対し、連合軍もアイタペ東方30キロのドリニュモール川(日本軍呼称:坂東川)に防衛線を敷き、アメリカ軍第112騎兵連隊戦闘団、第32歩兵師団、第124連隊戦闘団、第43歩兵師団を順に急派した。投入兵力は双方2個師団半であったが、日本軍の1個師団は実数1個連隊に過ぎなかった。

710日夜から日本軍は渡河攻撃を開始し、一時はアメリカ軍を包囲する態勢に入った。しかし、アメリカ軍の増援部隊が到着すると押し戻された。日本軍の後続部隊は、空襲や艦砲射撃に移動を妨害された。

84日には日本軍の食糧・弾薬は尽き、各歩兵連隊の兵力は100名以下にまで損耗した。安達軍司令官は攻撃停止を指令し、日本軍は撤退を開始した。日本軍の損害は戦死者だけで13,000名に達し、アメリカ軍の死傷者は約3,000名であった。

終戦

アイタペ決戦に敗れた第18軍はウェワクへ後退した。各部隊はウェワクからセピック川流域の地域に分散し、1944年秋にアメリカ軍と交代したオーストラリア軍との散発的戦闘を繰り返しながら、原住民の協力を得て食糧を採取し自活した。サクサクのほか、草の根やトカゲ昆虫の類など、食べられるものは何でも食べたが、将兵は飢餓と感染症に倒れていった。毒のある植物を食べて中毒死したものも少なくない。4000メートル級の山地越えでは貧弱な装備と低下した体力のために凍死者も続出している。後の証言によれば、日本兵が日本兵を襲って食べる人肉食事件が発生したとされるのもこの時期である。194412月に第十八軍は「友軍兵の屍肉を食す事を罰する」と布告していたが、これに反して友軍に対する人肉食が発覚した4名が処刑されている。掃討作戦に積極的なオーストラリア軍は包囲の輪を次第に狭め、19455月にはウェワクにも侵入、日本軍を内陸部へと追い込んだ。この頃には、日本軍としては珍しい集団投降をする部隊も発生した(竹永事件)。第18軍主力の食料・弾薬は19459月までには尽き果てると予想され、1か月後の玉砕全滅を覚悟していた1945815日、終戦の知らせがニューギニアに届いた。


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            安達二十三中将
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   安達軍司令官の降伏
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 ダグラス・マッカーサー、
オーストラリア首相ジョン・カーティン
913日、東部ニューギニアの日本軍はオーストラリア軍に対して降伏し、武装解除の後ムッシュ島に収容された。収容された陸海軍将兵の人数は11,197名であった。日本政府はニューギニアの惨状に配慮し復員船を優先的に送ったとされる。ムッシュ島には11月末に最初の復員船「鹿島」が到着し、19461月末までに将兵は順次日本へ帰国した。この間にもムッシュ島では、祖国へ帰る日を待ちわびながら1,148名が衰弱し息を引き取った。 。。。。。。。。。。。

東部ニューギニア戦線に投入された第18軍将兵は16万名、西部ニューギニアも含めると日本軍は20万名以上が戦いに参加した。そのうち生きて内地の土を踏んだ者は2万名に過ぎなかった。犠牲者には徴用船でニューギニアへ赴いた船員たちなど軍属や民間人、シンガポールの戦いで降伏したインド人捕虜も含まれ、正確な全貌は不明である。連合軍の戦死者もオーストラリア軍8,000名、アメリカ軍4,000名に上った。現地人の犠牲者数は明らかではないが4万人から5万人とも推定されている。


 ラバウルでは、何もうまいものがなかった。(*部隊長が)カタツムリが大好きだというので、集めて届けた兵隊もいたという。司令部はラバウルの周囲の高台の中でも一番高い所にあった。昔から官邸山と言われていた。植民地時代からの官邸の名残だったのかもしれない。

 兵器をすべて没収され、占領軍から日本兵の集団生活についてのお達しが来た。ラバウルには七万人の兵隊が生き残っていた。これを一万人単位での集団生活に組織せよとのことである。

 私たちは「トベラ」というところに宿泊地を設営することになった。市街から二時間ぐらいの距離のところである。そこはジャングルの中の草原であった。大草原である。そこの7メートル×50メートルくらいの箱形の草屋を作るのである。すべて自分たちの力、道具でやらねばならない。これから先、いつ日本へ帰れるものやら分からない。高原から沢の中に入り、木を切り倒す。気候が良いので仕事は順調である。完成までは、草原に野宿して、家作り、畑作りの毎日である。スコップはドラム缶のタガネで切り取ったスコップである。床は椰子の木を割ったもの、あるいは孟宗竹を2メートルの長さにして、割ったものを広げて30センチ幅のものをつくり、床どことして敷くのである。釘も縄もない。ジャングルから取ってくる蔦や蔓が縛る材料である。住居の長さは50メートルもあるのだから、床も平坦というわけにはなかなかならないので、多少のところは地形に合わせて作っていく。それでもひと月もしたら、大体寝るところができた。屋根と外囲いはすべて青草を刈り取って、ちょっと乾いたら縛り付ける。食料のサツマイモは、今まで陣地で作っていたものをとりに行く。その一方で新しい畑を休まず作っていく。毎日毎日そのような日の繰り返しであった。

 この作業部隊での出来事である。私たちの部隊はトラック2台に満杯の兵隊数であった。その中で私たちの班は16名。作業上の周りには高い金網が張り巡らせてあって、監視の米兵が角々に銃を構えて立っている。しかも2名ずつである。
 ある日のこと、作業にかかるために家の中に入ろうとすると、中ぐらいの赤犬がついてくる。なかなか離れようとしない。床材より地面までが30センチほどあるので、ひもでつないでおいた。犬が吠えたら大騒ぎになるだろうし、監視兵が飛んで来るであろう。みんな神経を使いながら作業をしていたが、それには暗黙の期待感があったからである。それは食い物は芋ばかりという栄養失調の日々である。こいつを今夜のご馳走にしたい・・・ということだ。

 昼休みをまっていたかのように誰かが言い出した。反対するものは当然一人もいない。それではどうするか、ということになり、
相談の結果、丈夫な紐を床下に下ろし、犬の首を絞めて、上では円陣を作って何か話している振りをする・・・という案で決定。早速取り掛かった。みんな真剣であった。なんと切ない仕事であることよ。完全に息が止まっているのを確認し、麻袋に隠し込んだ。トラックには固まって乗り込んだ。真ん中に麻袋を抱える役の兵隊がいる。こうして無事防空壕へ帰り着いた。その夜は、見張り番を続け、16人交代で食事をした。他の班のものは、今考えてみると、見て見ぬ振りをしていたのかもしれない。

 警備隊司令官が自殺したのち責任者になったのは少佐であった。前任者が少将だったので、一寸格が落ちた感じであった。そのうち戦争犯罪人収監のうわさが流れてきた。その噂では、なんと私が兵でただひとり、戦争犯罪人として逮捕されるというのである。戦犯の理由は、「戦争が始まってから最後まで南太平洋にいたのは私一人である」ということらしい。
 確かに昭和16年10月にはサイパン島におり、最後はラバウルにて敗戦を迎えた。それが理由であるとすれば、何を言っても仕方がないし、何を考えても仕様がない。腹を決めるより他なかった。私と日本本土から一緒に来た部隊の兵隊たちはどうなったのであろう。ラバウルまではみな一緒であった。ラバウルから半数がニューギニアへ行き、半数はラバウルに残った。私はニューギニアに行き、奇跡のようにまた一人ラバウルにもどってきたのだが、初めからラバウルに居た兵隊たちはどうなったのであろう。私一人だけが戦争犯罪人とは、どうしても腑に落ちないので、中隊長にその疑問をぶつけてみた。

 「おい栗田。帳面を見せてもらったが、お前の名前が一ページ目の最初にあったはずのものが、いつのまにか、その一ページ目の用紙が外れてなくなっていた。そのまま黙って知らん振りしていたらよい。」と言われた。それでもびくびくしながら一年近く過ごしたが、何も言われず、無事帰国船に乗船することができた。
 「光部隊」こんな名前の部隊があった。敗戦により連合国軍に捕らえられた戦争犯罪者を集めた収容者の部隊名である。ラバウル空港のはずれのほうにあり、新しい木材で風格のある建物であった。周囲はきれいに清掃され、障害物は一切なく、草木一本はえていない感じであった。ただ、金網が5メートルくらいの高さに張り巡らされてあって異様な感じを受けた。 「ひょっとするとここに私も入れられたのかもしれない」と思うと、ぞっとした。

 毎日8時間労働である。こんなにきちんと労働時間を守って働かせるということは、私たちが生きてきて初めての体験であった。船から荷揚げの仕事が私たちは多かった。豪州兵の車に乗せられて毎日出かけていく。船から下りて倉庫に積み込んだとき、こんな光景を見てしまった。缶詰の入った木の箱が積み重ねられてある。それを数えているのだがなかなか総数がまとまらない。何回も繰り返し、周りを回って数えている。格好の良い士官である。簡単なかけ算ができないでいるのだ。それを見て、日本の義務教育のすばらしさを感じたものである。

 それはそれとして、豪州兵はどの兵隊も非常におおらかであった。自然も豊かだから人間もゆったりと育っているのかもしれない。彼らの食事は、いつもジャガイモと牛乳である。肉は羊の肉。牛肉より羊の肉を好み、私たちに牛肉はくれたけれど羊の肉はくれなかった。輸送船の上甲版に、あふれるほど積み込んで、そのまま船から追い下ろし、市街地を通って草原に放し飼いにするのである。彼らの食事は決して贅沢なものではなかった。

 収容所に入ってしばらくの間は、みな同じ仕事をしていたが、ある日、「誰かジーゼルを直せるものはいないか?」を叫んでいる。ラバウルでもフエでも、エンジンをまわして発電機や冷蔵庫を扱ってきた。いわば私の本業である。誰ということもなく栗田の名前がでてきた。やむを得ぬ業務配置である。
 それからというものは、毎日ラバウル湾内に停泊する小型船の修理が仕事になった。毎朝収容所の作業隊まで迎えにきてもらい、出かけていく。車から船に乗り換え次ぎから次ぎへと直していく。すべて一人作業である。夕方には迎えに来る。
 「もう少しできるから、ちょっと待ってくれ!」と言っても、8時間労働だからそれ以上はダメだということで、一切聞いてもらえない。仕事は翌日回しである。その点は本当にはっきりしていた。
 船には、どの船にもたっぷり食事はあった。「腹いっぱい食べてくれ!」と言われ、故障が直ると感謝され、作業は楽しかった。
小型船舶はいろんな国のものがあって、それも面白かった。ドイツ、イギリス、オランダ、ともかく多種多様なエンジンであった。
 オーストラリアの兵隊は、前にも書いたが、おおらかで他国を侵略するなどという貧しい心はまったく感じられなかった。改めて、日本の国の現状を将来を考えさせられたものだ。

 捕虜の生活は毎日毎日畑つくりである。前にも書いたが農業の道具など何もない。ドラム缶をタガネで切り、スコップの形にしたもので草原を切り開くのである。元の陣地に植えた芋は大きくなりすぎて、穴が開いたり腐ったり・・・ここでも早く作らねば何も食べるものがなくなってしまう。しかし先行き真っ暗な生活であった。
 そんなある日、私たちの仕事をしている畑めざしてやってくる、3台のトラックが見えた。大勢の人が乗っているのが見える見える、そのトラックが止まった。とたんに「わあー!」という声が挙がって100人近い人たちが、蛮刀や、その蛮刀を棒の先に縛り付けた槍を振りかざし喚声をあげて襲いかかってきたのだ。私たちはびっくり仰天、あわてて収容所目指して逃げ出した。収容所が近くなったところで、「何でも良い。何か持ってかかって行け!追い返せ!」 大隊長の声であった。収容所に入った兵隊たちは、手に手に獲物を持ってかかっていった。大乱闘であった。でもこちらの数の方が圧倒的に多い。相手方の勢いは急速に弱まり、逃げだし始めた。 「後を追うな!追ってはいけない!」 大隊長の声が聞こえる。これで徐々に収まった。

 襲撃してきたのは中国人であった。突然のことで大騒ぎであった。当方の死者は4名。負傷者も相当数に上がった。また来るかもしれないということで、警戒を強めた。 その3日後に、中国人の代表が何人か来訪した。そして「自分たちは中国から日本陸軍の捕虜として連れてこられ、使役に使われていた。 陸軍部隊であると思って、恨みを返しに過激な者たちが襲ったのだという。「もう戦争は終わったというのに申し訳ないことをした」と、丁寧に謝罪するのである。 襲ったメンバーの中でも1名が死亡したとのことであった。戦争中に恨まれるような扱いをしていたのであろう。この事件で死亡した4名の中には、私の友人である角谷房吉さんもいた。 石川県金沢市の湯桶温泉で兵役に就くまで働いていたと言う。


http://www.nishinippon.co.jp/news/2005/sengo60/sengo5/17.html

西日本新聞 シリーズ「復員60年」私の815 <17> ブーゲンビル島

寄村文利(よりむら・ふみとし)さん(85) 大分県宇佐市

南方のソロモン群島北端、ブーゲンビル島での終戦前後の約三年間はこの世の地獄。体験は復員後もずいぶん長い間、私を苦しめました。。。。。。。。。。。。。私は一九四一(昭和十六)年六月に召集されました。食糧、弾薬を運搬する輜重(しちょう)兵として中国の湖南省、次いでブーゲンビル島に転戦しました。

待ち受けていたのは飢餓です。陣地でイモを作っても空腹を満たすほどではありません。「毎日、大便をする暮らしがしたい」。仲間同士で、そう言い合っていました。

 ミミズ、セミを焼いたり、木の根っこやヤシの葉を煮たり。時折配給される野ネズミを煮ることが楽しみでした。それでも二匹を分隊数人で分け合うので、口にするのはわずかです。

 「お国のために」という軍国教育で育ちましたから戦争を恨む気はありません。しかし、食糧などの補給路の確保を考えずに戦争ができるわけがない。

  最前線で手足をもがれて退却してくる兵隊に対して「持ち場に戻れ」と血相を変えて叫んだ参謀さえいました。軍の上層部は兵隊の命など、将棋の駒ぐらいにしか思っていなかったことがよく分かりました。

 復員後は左肺の三分の二以上を切除するなど、無理が利かなくなってしまいました。高温多湿のジャングルでの生活が体をむしばんでいたのでしょう。今は文集を通じて、戦傷病者の苦しみが子どもたちの平和教育の教材になればと願っています。

*記事注:ブーゲンビル島
  ガダルカナル、ラバウルなどと並ぶ太平洋戦争激戦地の一つ。
 一九四三年四月、前線視察のため同島を訪れた山本五十六連合艦隊司令長官が米軍機に撃墜され戦死したことで知られる。同年十一月に西部タロキナに米軍が上陸。飛行場を築いた敵に対し日本軍は二度総攻撃を行うが失敗。その後、米軍に代わったオーストラリア軍との間で敗戦まで戦闘が続いた。現パプアニューギニア領。


 10.帰国の日

 このように、敗戦後の収容所生活でもいろんなことがあったが、そのうちに「んほんじん帰還兵仮宿泊所」と「乗船波止場」ができたという話が聞こえてきた。毎日、毎日どんどん帰国しているという。私たちの番はいつ来るのであろうかと、とにかく待ちに待っていた。
 1946年7月、私たちにも波止場行きが回ってきた。私の戦争犯罪者問題はそのままである。なるようにしかならぬと思っても、はやり薄氷を踏んでいる思いであった。

        緒戦より太平洋にわれ一人  戦犯といわれ死刑と言われて

 
7万人もいたラバウルの日本兵も、次々と帰国し、ようやく私たちにも波止場行きの順番が回ってきた。その喜びはことの外であった。私の戦犯問題は誰も何も言う人はいなかった。乗船宿営地で、もうみんなは戦争が終わった安堵感と、祖国へ帰れる日を待ち望んでいるだけだと思っていた。 しかし、死線の中を潜り抜けてきた人たちばかりの集まりである。夕方であった。なにやら騒々しいので外へ出てみると、隊員全員で先任下士官を殴ったり蹴ったりしている。
 
「どうしてこんなことをするのか。もうすぐ帰国というときに・・・」 と兵隊たちに聞くと、「こいつは衣類を隠し持っている。そいつをみんなに分けろと、要求しているんです。」
 私は「お前たち、いまさらそんなことで争っているときじゃないだろう。お前たちと違って歳も多いんだし、妻や子もいるのだろうから何か持って帰ってやりたいだろうさ・・・」と行っても、兵隊たちも聞いてくれない。兵隊たちにしてみれば、本当は衣類がどうのこうのという問題ではないのであろう。今までの怨み辛みがたまっての暴行というのが本音なのではなかろうか。

 先任士官に、「荷物になるばかりだから、出してみんなに分けてやったらどうだ。」と言ったが、先任士官も頑固なやつでなかなか「うん」とは言わない。なんとかみんなをなだめているのに物欲の強い人である。
 「これで最後だ。先任士官、聞いてくれ。もう少しで日本へ帰れるんだ。帰らなければならない。家族が待っているんだ。衣類なんかどうでもいいではないか。もしあんたがあくまで断ると言うなら、後のことはどうなってもしらんよ。」

 それでも彼はうんとは言わなかった。「それじゃあしょうがない。私はもう何も言わない。帰る。」と言ってその場を離れた。とたんに、「やってしまえ!」という声とともに、「ギヤァーッ!」という叫び声が聞こえた。このままだと殺される。やむなく飛んで戻って、先任士官の体に覆いかぶさった。 「生きて帰るんだ。生きて帰るんだ。衣類なんかどうにでもなる。」 「みんな頼む、助けてやってくれ。衣嚢袋持ってこい。」
 

 若い兵隊たちが三個の衣嚢袋を担いできた。兵隊たちの日常は海で体を洗い、素っ裸のまま越中褌をタオル代わりにして、終わったら紐を首の周りでひらひらさせながら一日の仕事を終えたような毎日である。まともな服など誰も持っていない。衣嚢袋というのは海軍入隊と同時に一人に一袋くれる。その中には夏服二着、冬服三着作業服三着、脚絆二足、下着冬用、夏用それぞれ三着ずつ・・・とにかくまだ他にもあるのだ。40センチ×50センチ×1メートルの大きさの袋で、これを移動のたびに持ち歩くのである。これがなぜか三個もあったのだから驚きであった。これらを分類しみなで分けて一件落着である。この先任士官も無事日本へ帰国したであろうが、その後の消息は聞いていない。

 こんなことが乗船する前に三度ほどあっただろうか・・・その度に大隊長が私のところへ来て、私に仲裁を頼むのである。どうしてこうなったのか分からないが、先任士官問題での仲裁が皆の頭に焼き付いてしまったのかもしれない。
 
 私たちが乗船した船は、ラバウル最後の引き揚げ船であると言われていた。乗船当日のことである。一列になって船に向かう私たちを見送っていた一団があった。どういう理由で残る人たちなのか分からないが、その中のひとりが私を見て突然叫んだ。「お前は帰れないはずだ。俺は知っている。ラエにいただろう。」 私はびっくりした。 佐五隊の兵隊だな・・・と思った。どうして佐五隊の兵隊がここにいるのか不思議であった。ラエの兵隊が生きてここにいるなどということは考えられなかった。きっと駆逐艦で増援部隊を送り込んできた人ではないか?と思った。私は、「あなたは最後の片付けをしたら帰れるだろうが、私が今ここに残ったらどうなるか分からない身の上だ。何も言わんでこのまま見送って欲しい。」 そう言って大切に持っていた万年筆を渡した。彼は黙って受け取った。私の脳裏には、理由のない戦犯問題がこびりついていたようである。佐五隊とは「佐世保鎮守府第五特別陸戦隊」のことである。 帰国の引き揚げ船はアメリカのリバティー船である。戦争のため大量に作られた輸送船であると聞いていた。

 乗船と同時に、各隊ごとの場所割りが定められた。とにかく貨物専用船なので、船底まで足を伸ばしてゆったりできるところなどひとつもなかった。荷物など持っている者もいない。着の身着のままの兵隊たちである。私もみなと一緒に船底に降りていこうとすると、「兵長殿、ちょっと待ってください。甲板に残っていてください。」と言われた。そのまま待っていると、「兵長どの、こっちこっち、こっちへ来て欲しい。」と言って上甲板に連れて行かれた。上甲板の船橋の後ろにテントが張ってあった。その中に毛布が敷かれてある。そして5,6人の兵隊が、「日本に着いたらもう兵長殿とはお別れになります。今までお世話になったお礼に、俺たちが用意したこのテントでゆったりと過ごしてください。便所に行く以外は外へ出る必要もありません。俺たちが食事からすべて一切お世話します。」という。私は深く考えもせず、本当に14日間お世話になりっぱなしで過ごしてきた。日中は話相手になってくれる兵隊もいて退屈もしない。こうして彼らを好意を素直に受け、呑気に日本でのこれらの暮らしのことなど考えながら、無事名古屋港に到着したのである。まさに王様になったような気分の14日間であった。

 下船の直前になって、大隊長が私のところに来られた。小林少佐である。そして私に「また12名、船の中で行方不明になってしまった。」とささやくように言われ、後は何も言われなかった。私も今更そのことの意味を深く聞こうとはしなかった。でも容易に状況を察することができた。憎まれていた12名は、いつしか夜の海に落とされていたものらしい。自分で危ないと思っていたものは、絶対、上甲板に出てこなかったと言う。私が特別扱いされたのも、私がいれば、また仲裁に入られるとのことであったようだ。なんと呑気な私であったことか。しかし素直に考えると、自分の生き様が皆の心に通じて、王室暮らしとなったことをありがたいことだと思ったものである。

 それにしても、ぼろ服を着て、見られた格好じゃない。あの世から着た兵隊の姿である。それが当たり前という顔をして、
「日本の女がいる!」と叫んでいる。真っ黒の汚れた顔に涙が幾筋も流れている。よくも日本の土地を踏むことができたものよ。この喜びの陰でどれほどの人が苦しみ、もがきながら逝ったものか。

 何の感動も覚えず六日町駅頭に立っている。何の喜びも、今の日本の状況を知ることもなく、バスに乗り込みたどり着いたふるさとの町。5年ぶりである。見たところ何も変わったところはない。父母の喜びようはこの上ないものだった。私の兄弟は11人。貧乏な農家である。それでも我が家は暖かい所だった。長男は上海事変のときに戦死した。次兄は結婚して家におり、私の下の弟二人も復員して家にいた。にぎやかであった。
 徴兵前にくそまじめに働き、家に金を入れていた私に、両親は家を継がせようと思い、少しの土地も家も私の名義で登記していた。帰国すると両親は家を私に継げと言う。兄弟たちも「それが良い」と逝ってくれた。しかし、私にはそれができないことが起きていた。

 私が入隊するときに、同年に4人の同級生が海軍に一緒に入隊した。そして、生き還ってきたのは私ひとりであった。私は三人の家にお悔やみに回った。その中の一人は、私と大の仲良しで、しかも私の家の大家の長男であった。大家の母は、いろいろと話したあと、私が帰ろうとするときに、「お前は生きて帰ったのに、うちのAはなぜ死んだのだ。」と泣き出したのである。この悲しみ、この苦しみは、日本国中の母親すべてのものであっただろう。私は生きて帰ってきたことが、何か罪を犯したような感じに襲われたのである。この地で、親しかった友人の親たちの悲しみを目の前にしながら暮らす苦しさを考えたとき、「私はこの地では暮らせないな」と思った。そして「私の戦争はまだ終わっていない。亡くなった友人、戦友、その父母の悲しみを、こんな愚かな戦争のありのままの姿を、みなに伝えるまで私の戦争は終わらないのだ・・・」と思った。私は戦友をたよって、1週間後、ひとり北海道に旅立ったのである。過去のすべてを棄てて・・・

 戦後60年を経過した。この60年間、私は北海道から大分へ、大分から南米パラグアイへと移住し、そして再び日本の大地を踏むことができた。その間ひとときも離れなかったのが、ニューギニアの密林の中に、飢餓とマラリアで死んだ数のほうが圧倒的に多かった無謀な戦争。人間が極限状況に追い込まれたときの狂気の行動。今もあのジャングルの中に眠っている戦友の声が耳朶を打つ。
 「栗田、この俺たちの無念を多くの人たちに伝えて欲しい。もう二度と日本が、このような愚かな戦争をしてはならぬことを訴えて欲しい!」
 戦争とは、誰のために、何のためにするものであろうか。

 今また靖国問題を初め、仮想敵北朝鮮を作り、中国への脅威をあおりたて、日本を再び「戦争のできる国」にしようとしている政治とは、誰のための何のためのものなのか。国益とは何か。具体的に明らかにしてみるがいい。
 北朝鮮に拉致された人たちとその家族のことを思うと、その非道に怒りが湧き上がる。一方日本が過去に犯した過ちが、現地の人たちに与えた怨念の深さも思うがいい。平和に生きるということは、過ちを認め合うこと、過去の過ちの責任をきちんと果たすこと、それしかないはずだ。

      貧しくても心豊かに生きたい
      みんなが人をおもいやり
      みんながいたわりあって生きていく世の中が欲しい
      人はなぜ争うのか
      動物は同じ仲間を殺したりしない
      殺し合うのは人間という動物だけである
      自然の中に悠久の自活の道を探す
      豊かな四季 そこに住む人たちの心の豊かさ
      日本人は日本人としての心を取り戻そう
      物欲は限度なし
      ほどほどにしないと神も仏もそっぽを向いてしまうだろう
      戦争の結果を忘れてはいけない。                   (「獏の戦争」終り)

                 
 あとがき

  4,5日前に「獏の戦争」を書き終わった。今日は正月の二日。朝のご先祖供養の最中、曾孫の圭吾が、這い這いしながらやってくる。曾孫の頭をなでながら読経を続ける。
  祭壇には、戦没者2,300名のご法名が納まっている。ご法名は、国内の県別、山・川・都市の名前と、日本が侵したアジア・南太平洋の戦争地域の国名・島名、山・川・都市名を使わせていただいた。
  朝のご先祖様ご供養は私の日課である。戦争のご法名のほうが、自分のご先祖様より先になっている。戦争がなかったら、2,300名の戦友たちも、私同様の幸せの毎日を送れたであろうに・・・いつもそのように考える。

 戦争は二度と起こしてはならない。起こさせてはならない。そんな決意と恨みをこめて、私は毎日のご供養をこれからも続けていくつもりである。
                                                      
                                                倉兼一二



http://ikotu.org/old/firipin/n-senki.html
近衛第2連隊迫撃21大隊曹長の生還者、唐澤 勲氏著 新潟日報事業社刊
『餓鬼道のニューギニア戦記』を転載する

ニューギニア作戦の前にまた後に、こんな悲惨な戦闘があっただろうか。戦争だから、弾丸による戦死はもとより覚悟していた。戦いというほどの戦いもなく飢餓と病に恨みを残した三年有余、東部ニューギニアのラエから西部ニューギニアのアイタベまで、長汀千五百キロニ年九ヵ月にも及ぶ山野の東奔西走。その間、こちらから仕掛けた戦いは東のフインシュ作戦、西のアイタベ戦くらいのもので、後は戦場を逃げ回っていただけではなかったか。唯一仕掛けた東西の作戦も、目も当てられない惨敗に終わっていた。。。。。。。。。。。南方軍から「持久」の命令を受けた時の第十八軍の状態について吉原参謀長は、「とどまるも死、進むも死」と言っているが、果たしてそうであったろうか。アイタベ攻撃を中止して現地にとどまれば、全員が生きていられた……といえる条件保障はもちろんない。しかしアイタベ攻撃によって多くの犠牲者を出した後の安達中将は、食料、薬草の研究や現地人に支援を求めるなどの方法で現地自活に大きな効果を上げている。もしアイタベ攻撃を中止し、持久策として、これらの方法を直ちに取り入れていたなら、かなりの人命を救い得たことは想像に難くない。

しかし安達中将は、我に戦力と呼べるものの有る限り、これをすべきではないと戦いを断行した。彼は、「もしそれ当所より持久を主となせば、ついには軍の有する戦力を発揮し得ずして、悔を千載に遺すに至らんことを必定なり」と訓示の中で述べている。
安達中将にとってアイタベ攻撃は、意味なき戦いどころではなく、成功の可能性はないと知りながらも、敢闘精神をもって、皇軍の本領を発揮することにより、全般の作戦に寄与し、かつ日本軍の士気を鼓舞しようという大目的がかかっていた。

多くの部下が死ぬであろう。しかしそれもまた悠久の大義に生る道を全うさせることが、彼らに対する真の愛だと信じた人であった。戦場でも余暇には「軍人勅諭」を書き写していたという安達は、軍人として信念一筋の純粋な人であった。彼は軍司令官の義務、責任をつきつめて行き、そこにアイタベ攻撃の決意が生まれた。それは彼にとって軍人精神の極みであり、光芒を放つ美の世界ではなかったか。安達はその美の虜となってしまったと思われる。・・・・・・・・・・・・

ニューギニアに転用された不幸な多くの青年は、米の飯も与えられず、現地物資に依存して生きのびた。内地からの物資輸送も無く、ニューギニアの原住民の生活権を荒らし回り、草根木皮をかじって耐えた。マラリアで高熱を発してもアメバー赤痢で下痢の回数を増していっても、負傷しても何らの医薬品とて無かった。果ては栄養失調で骸骨みたいにやせ、生への執念から、人肉まで食べた末、万哭の涙と呪いを残して餓死していった。なんで桜吹雪の如く美しく死んでいったものか。それは壮烈でも崇高でもない、みじめきわまるものであった。これこそが私のこの目で見た、戦いの実相であり、真実である。下級将校、下士官、兵は、天皇のためや国のために死んだのではない、自分の意思に反し、仕方なしに死に追いやられたのである。
かくて昭和二十年八月三日、一万有余の前途有望な若者の死をのみ記録し、惜敗して事実上のアイタベ作戦は中止された。四日から戦線離脱退却が始まった。


http://www5.hokkaido-np.co.jp/syakai/senkanokioku/no02/08.php3

戦後60年「戦禍の記憶」第2部 兵士―南方編(8) (抜粋)

一九四五年(昭和二十年)八月、陸軍歩兵第二三九連隊の中隊長だった私は、東部ニューギニアの密林で終戦を迎えた。マラリアにかかり二日間、意識不明が続いた。医薬品が欠乏し、若いヤシの果汁を解熱剤注射液を薄める滅菌蒸留水に使ったため、でん部が化膿(かのう)し、歩けなくなってしまった。

 四千人規模から約百六十人まで減っていた連隊が指定された海岸の投降地までは、徒歩で約一週間、四千メートル級の山岳地帯を越える難行。私を運ぶ余力は部隊になく、私が現地住民集落のチーフに搬送を頼んだ。四人が木の枝とツルで編んだ担架に、私を載せて部隊と一緒に出発、次の集落に着くと担ぎ手が代わって次々と運ばれた。ムッシュ島の収容所を経て、四六年一月に復員船で横須賀に帰国した。。。。。。。。。。。。彼らがなぜあんなに親切だったのか、今でも分からない。物を与えたわけでも、連合軍より強くて彼らを守ったわけでもない。戦闘を避け、密林に逃げた留守の集落のタバコやヤムイモを失敬し、迷惑をかけた部隊もあったぐらいだった。

 追い詰められ敗色濃い戦場。突撃の指揮を部下に押し付ける上官もいて、味方同士でさえ猜疑(さいぎ)心が生まれ、人間の本性がむきだしになる極限の状況で、住民に助けてもらったのは奇跡のようだった。


http://www.noguchi-ken.com/message/b_num/2008/0826.html
野口健公式サイト「富士山から日本を変える」(抜粋)

ビルマの国境を越えインド領のインパールにある英国軍基地を奇襲攻撃しようとしたのが「インパール作戦」であるが、3000m級のアラカン山脈越えは過酷を極め、作戦の基本中の基本となる部隊に対する食料等の補給は各自が現地調達などと考えられない作戦計画であった。そして食料も弾薬も尽き、またマラリア、赤痢によりバタバタと兵士が死んでいった。7万人前後の兵士がこのインパール街道で戦死し「白骨街道」とも呼ばれた。にも関わらず作戦の発案者であり責任者である牟田口司令官は前線から400キロ離れていた保養地で「ひたすら前進あるのみ」と命令を下していたとのこと。牟田口司令官の話をする度に祖父は肩をプルプルと震わせながら「あいつは許せない」と・・・。

 先の大戦はインパール街道に限らずフィリピン、ガダルカナル、パプアニューギニア、沖縄、硫黄島など様々な各地で無謀な戦争が繰り返されてきた。あの「絶対国防圏を死守すべし」ってスローガンは一体全体なんだったのだろうか。言葉だけ煽って、戦地に兵士を送るだけ送って後はアッツ島から始まった「玉砕せよ」である。作戦としてまた戦略として破綻している。私たちがフィリピンで行った遺骨調査で発見した数100体もの御遺骨の多くがジャングルの中で援軍を待ち続け、そして最後は集団自決したものと推測された。さぞかし無念であっただろう。洞窟の中で御遺骨を前に英霊たちの無念さを全身で感じていた。

 「終戦記念日」という言葉で戦争に負けた事実をごまかしてほしくない。何故ならばあの「敗戦」を真っ直ぐに受け止め、戦地で何が行われていたのか、また大本営はどのような根拠であのような無謀な作戦を遂行していたのか等を理解するところから、戦後日本の再生を始めなければならないからだ。「終戦日」という言葉で「敗戦」した事実をぼかしてはならない。同じ過ちを繰り返さないためにも。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~osame/omoukoto/241wa-shuusenn-no-hi/241wa-shuusen-no-hi.htm
思うこと 第241話 「終戦の日」に思う 2007/8/15 (抜粋)

これらのドキュメンタリー番組では、310万人の日本人の死亡だけでなく、近隣諸国の犠牲者の数が約2000万人にのぼることにも触れており、また、『証言記録マニラ市街戦』では、日本兵も多くのマニラ市民を犠牲にして戦うという自分勝手な戦い方をしているが、攻める米軍も自国の兵隊の犠牲者を最小限にすることを優先し、例えばイントラムロス(かってスペインが築いた要塞都市)内の2万人のマニラ市民を楯に立てこもる約700人の日本兵を殲滅させるために、市民もろとも猛爆撃と砲撃を加え、都市を灰燼にして、日本兵を全滅させたが、同時に都市内で生き残ったマニラ市民もわずか3000人ほどであったと言う。こういう現実をみると、戦争が人の心を狂わし、平時には考えられない行動をしてしまうことがわかる。とにかく、2度と戦争をしてはいけない、という思いを、見た人の心に訴える番組であった。

飯田進「地獄の日本兵」ニューギニア戦線の真相 新潮新書273

 終戦のとき私は、ソロンもっと西の地域で、憲兵隊と一緒に治安維維持の任にあたっていました。終戦の知らせは案外早く、8月18日に受けました。海軍の大発艇が知らせに来てくれたのです。
 終戦とはまやかしで、敗戦であることは分かっていました。 敵機が散布したビラで、沖縄が陥落し、空爆によって日本の都市が廃墟になっていることを、知っていたからです。私は銃をかまえ、ありったけの弾を海に向かって撃ちました。あたかも地球の自転作用が止まったかのようでした。思考力は完全になくなっていました。神国日本が敗れるなどとは、およそ理解の枠を超えていました。まさに茫然自失の有様で、私は本隊に帰りました。・・・・
 
 終戦のときに、第十八軍の安達中将が把握していた兵の数は、1万3,263人だったと言います。第二〇師団が1,711名、第四十一師団が1,047名、第五十一師団が4,319名、その他6,086名・・・。 ニューギニア掉尾ではこのような記録が残っていますが、西部のビアク島やサルミで戦った第三十六師団については、推計があるにすぎません。

 終戦後にも命を落とす兵士は後を絶ちませんでした。この島に投入された20万の兵士のうち、生きて本土にもどれたのは、一割に満たないのです。

 間もなく私は、戦犯容疑者としてオランダ軍に勾引されることになりました。容疑はオランダ軍警備隊討伐のおりの巡警補助の殺害事件、それの北岸作戦の住民殺害事件でした。容疑事実に間違いはありません。しかしオランダ軍が、ニューギニアの先住民の死に、それほど法的な正義感をもっていたとは、とても信じられませんでした。
 戦争終了と同時に、インドネシア全土には独立運動が広がっていました。彼らはそれをなんとしても鎮圧し、旧植民地の主権を回復しなければならなかったのです。そのためには武力だけでなく、宗主国としての民衆の味方であるという、印象を植え付けねばなりません。日本軍将兵を悪逆非道な戦争犯罪人として裁く軍事法廷は、格好の宣伝舞台の役割を果たしたことは否定できません。・・・・
 
 ジャワのチピナン刑務所には、インドネシアの各島から集められてきたBC級戦犯がおよそ700名近くいました。昭和24年暮れ、私たちは小さなボロ船に押し込まれ、日本に向かいました。主権を喪失した(インドネシアが独立したため)オランダは、もはや私たちを拘禁することができなくなっていたからです。わたしたちの処遇に困惑したオランダ政府は、結局のところアメリカ軍が実質的な支配権を持っていたGHQ(連合軍最高司令官総司令部)に、私たちの身柄を委ねたのです。

 ようやく日本に送還されることになったものの、その先は自宅ではなく、東京都豊島区東池袋にあったスガモ・プリズンでした。・・・そうして始まったスガモ・プリズンでの生活は6年間続きました。・・・

 死刑執行はそれが最後でした。それからわずかに二ヶ月後の昭和25年6月25日、朝鮮戦争が勃発したのです。絞首台の取ってを引いた在日アメリカ軍の兵士たちも、根こそぎ朝鮮戦争に動員されていきました。GHQ総司令官の命令により、自衛隊の前身、警察予備隊が創設されたのです。

 警察予備隊の編成には、旧軍の職業軍人が大挙して関わりました。それは実質的な日本の再軍備でした。一般社会からは、軍国主義者の典型と目されていたスガモ在所者ですが、そのなかから猛烈な批判の声が起こりました。
 「おれたちが戦犯として裁かれた意味はなんだったのか」
 再軍備の動きに対し、スガモから続々と外部の新聞、雑誌に反対の投書が発表されるようになりました。極秘のうちに、原稿を外部に送り出し、『われ死ぬべしや BC級戦犯者の記録』『壁あつき部屋 巣鴨BC級戦犯の人生記』『あれから七年 学徒戦犯の獄中からの手紙』などが相次いで出版されました。・・・・

 そして昭和31年、私もまた仮釈放され、社会人の一人となったのでした。33歳になっていました。・・・

 しかし次ぎのことだけは、お伝えしておきたいと思います。
戦後、とりわけバブル景気華やかだったころ、数多くの戦友会によって頻繁に行われた慰霊祭の祭文に、不思議に共通していた言葉がありました。
 「あなた方の尊い犠牲の上に、今日の経済的繁栄があります。どうか安らかにお眠りください。」

飢え死にした兵士たちのどこに、経済的繁栄を築く要因があったのでしょうか。怒り狂った死者たちの叫び声が聞こえてくるようです。そんな理由付けは、生き残った者を慰める役割を果たしても、反省へはつながりません。逆に正当化するだけです。実際、そうなってしまいました。

 なぜ、あれだけ夥しい兵士たちが、戦場に上陸するやいやな補給を断たれ、飢え死にしなければならなかったのか、その事実こそが検証されねばならなかったのです。兵士たちはアメリカを始めとする連合軍に対してではなく、無謀で拙劣きわまりない戦略、戦術を強いた大本営参謀をこそ、恨みに怨んで死んでいったのです。

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uploaded: Aug.15,2010   →top page