| 倉兼一二の人生記録 (シリーズで毎月月末に掲載します。青字は掲載者が勝手につけています。) →その5 →その4 →その3 →その2 → その1、→著者紹介 獏の戦争 その1 (2010/3/31 掲載) 1.「獏の戦争」を書くことは私の責務を果たすこと 一月ほど前、閻魔さんに叱られた。心臓の発作で倒れ、「もうこれで終わりか」と思い、あの世への旅立ちのために、最後のご供養までして出かけたのに、地獄の入り口で調べられたのである。審査員のようなのが3人、机の前に座っており、その後ろの中央に、ひとり偉そうな、ひげを蓄えた人がいた。じいっと調書と私を見比べている。そして曰く、 「お前はまだしなければならないことがあるというのに、何をこのあたりをうろついておるのじゃ!帰れ!」 その声の大きなことに驚いた。私もせっかくここまで来て、そんな言い方はないと思い、腹が立ったので「何を言っているか、この馬鹿野郎!」と怒鳴り返した。閻魔さんにむかってである。 「爺さん、どうしたの?」 私の声が大きすぎたのか、隣に寝ていたばあさんに起こされた。 今考えれば、いわゆる「臨死」状態を経験し、この世にもどってきたらしい。だが閻魔様に言われたことは、私自身きになっていたことなのだ。あのパプアニューギニアで、戦友たちがばたばたと倒れて行く姿を目の当たりにしてきた私である。ひとり生き残った私が果たさなければならない責務は何なのか。千間様に言われるまでもない。死んでいった戦友たちの無念さを、多くの人たちに知ってもらうこと。それをまだ果たしきっていないから、この世にもどされたのであろうと思っている。 「栗田(私の旧姓)、頼む」 じりじり焼けるような暑い日、土砂降りの雷雨の日など、どこからか戦友たちの声が、私にははっきりと聞こえてくるのだ。 退院して数ヶ月がたった。幸い奇跡のように、体調も戻ってきている。今のうちにこの記録を書いておかねばならぬ。私はボールペンをとった。順序も、まして構想などもなく、ただ思いつくままに書き連ねた。夢を食らって生きてきた「獏の戦争記録」である。 2.私の生い立ち概要 大正半ばに米騒動という事件があったことを、歴史の時間に聞いたことがある。事件の詳しいことについて、私は分からないが、どうも父がこの事件に関係していたようである。魔がさしたというか、一儲けしようと、知り合いの蔵に、通常の3倍もの米を買いこんでおいたのだが、暴落によって多額の負債を背負ってしまったという。 だからといって父は、悪人などという人ではなく、むしろ心の優しい粋な人であった。三味線をつまびき、琴をかなで、尺八も吹く。義太夫もうなる。昔よく「若衆芝居」というのをやっていたが、青年たちがよく父のところへ習いにきていたのを、幼心に覚えている。 家には大きな池が3つほどあり、鯛と金魚の養殖もやっていて、祝い事などあると自分から料理長をかってやるという、まあ言ってみれば地域のちょっとした有名人とでもいうのかな・・・・そんな人であった。 冬になれば動物の皮買いなどもしていて、いたち、むささび、てん、むじな、りす、きつね、時によっては熊、かもしかなど、漁師がとったものをそのまま買ってきて、皮をはぎ、形を整えて板に張り付け干す。余った肉は子供たちに渡される。私たちは子供たちだけで調理し食べたものだった。母は肉類、魚類など一切食べない人であった。 こんなことを書いたのは、実は子供たちが11人もいたのである。その上、従兄弟をひとり引き取っていたので、合計12人の子供である。獣の皮はぎなど、当時は誰もが嫌がる仕事であった。だが世間体など気にしていられない。父は自分でもよく遊んだが、とにかく何でも手当たり次第、金になる仕事はやっていたようである。当然母の苦労も並大抵なものではなかったであろう。
私は小学校時代、金魚というあだ名をつけられていた。観賞用とはほど遠い醜怪な金魚だが、きっと目玉だけがぎょろりとしていて、腹が出ている栄養失調状況でいたことからつけられたあだ名であったのだろう。とにかくこんな体で、よくぞこの87歳にいたるまで生きてきたものよ・・・大勢の人たちの慈悲により生かされてきたのだという思いが、ひとしおである。 後年、徴兵検査で帰郷したときお会いした乳母兄弟の山本みどりさんは、「お前が乳をいっぱい飲んでしまったので、私はのっこく(小さく)なってしまった。」と言って笑ってくれた。嬉しかった。その人は本人が言われるように大きくはなかった。でもその時はすでに養子を迎えられ結婚されていた。「どうぞいつまでも幸せに・・・」と、願わずにはいられなかった。 そんな家庭だったから、母の苦労は並大抵のものではなかっただろうと思う。母は口癖のように私に言っていた。「お前だけは絶対に賭け事はするなよ!」 これが、米騒動での父の失敗を指していたのか、兄弟の中に賭け事に夢中になっていたのがいたのか、未だに分からないが、賭け事が貧乏のどん底に落ちた原因であると思っていたに違いない。 私はそんな大人数の兄弟の中で育った。いつしか私の心の中には 1.他人のまねはしない 2.他人に使われるのはいやだ 3.まして他人を使うのもいやだ 4.妥協もなかなかしない といった性格が培われていったようである。そんなところが「変わっている」と言われる所以なのかもしれない。このような性格から、他人の中で働くよりも自分一人でできる職業を考えざるを得ない。そして得た結論が農業である。私は早くから、大地に生きようと心に決めていたのである。しかしこの夢が実現するのは戦後である。北海道、大分、パラグアイと農業人生にのめりこんでいくことになる。 小学校を卒業するとすぐ、東京の薬種問屋に丁稚奉公に出た。東京中を自転車で走りながら、早稲田講義録で夢中になって勉強したものだ。昭和12年、16歳の歳、私は父に勧められて横須賀の海軍工廠に勤めるようになる。ここに4年間勤め、20歳、徴兵検査を受ける歳である。この時はまだ、これから自分の身に降りかかってくる戦争体験のすさまじさなど、まったく予想もしていなかった。 3.海南島・定安 地図をみて海南島は恋しかり 今かの人ら いかにおわすや
そんなときに赤ん坊の泣き声が聞こえた。気になるので声をするほうへ行ってみると、家の中で、まだ這うこともできない赤ん坊が、声を限りに泣いている。私はそのころ、大の甘党であった。そこで戦給品のお菓子を持って歩いていたので、そのお菓子を赤ん坊の枕元に置いていた。同年兵が何人かいたので、みんなに頼んでお菓子を山のようにおいてきた。「子供を置いて逃げるとは・・・」と腹もたったが、同時に今度は戦争とは何なのだ?という疑問が胸のうちに湧いてきたのである。 その上、女の人がひとり、共産党ということで、殺されるのを見てしまったのである。初年兵の、しかも初めての戦闘参加の私はただ呆然とそれを見ているだけで、どうすることもできなかった。共産党員というだけでなぜ殺されなければならないのか。私はそれまで戦争のことなど考えたことはなかった。何のために人が殺し合わなければならないのか。こんなことしなければ生きていけないのか。ともかくも、私はこのときから戦争について深く考えるようになった。この歳になる今でも、地球のどこかで戦争のニュースが入るたび、このときのことを思い出しては、「いったい戦争とは何なのか」と、問い続けている。Y作戦と呼ばれたこの戦闘は、私の心に生涯消えぬしみ跡を残している。 赤ん坊を置いて逃げたる親たちに 我らが行いいかに伝わる 戦場(いくさば)に泣きいる赤児ひとりいて 戦友(とも)の菓子厚め与え帰りぬ そのころの海南島にはまだ道路が十分でなく、田んぼの間をくねくねと狭い道が続いているだけであった。もっとも、車がんかう、交通機関といえば牛車がゆったりとあるいている状況であったから、道路整備など必要がなかったかのかもしれない。 海南島では定安を根拠地に活動を展開することになったのだが、そのためには、海岸から定安までの輸送路を確保しなければならない。そこで難題が持ち上がった。それは南渡江という川をどうやって渡らせるか、ということと、川を渡ってから続いている砂地をどうするか、という問題である。 幸い南渡江を渡るには、はしけがあったので、一台ずつではあったが川は渡ることができた。渡りきったところから200メートルほど砂地を走らなければならない。砂地を通り過ぎ、上り坂を登り切ると、定安の市街に入る。さてこの200メートルほどの砂地をどうするか・・・トラックを走りやすくするにはどうしたらよいのか・・・そこで工作隊に「何とかならんか」という照会がきた。その話し合いの中で「 「椰子の木を八番線の針金で縛って並べてみてはどうか・・・」 などと私が発言したものだから 「それなら、お前が行ってやってみるか」ということになってしまったのである。責任者は私、それに台湾出身の通訳2名である。苦力(労働者)は宣撫班の連中が話しをつけておくということであった。 さあ、その翌日現場についてびっくりした。大勢集まっている。こどもから老婆まで、70名を超す人数である。私は通訳を通して2列に並んでもらい、仕事を手伝ってもらうことに対し感謝の言葉を述べた後、次ぎのように言った。 「12歳以下の子供たちは学校にもどって勉強をしなさい。老人は大切にしましょう。無理せず仕事をしてください。女子も比較的軽い労働についてもらいます。その分若い男性諸君にはがんばって欲しい。」 私の話が終わったとたん、がやがやニヤニヤ笑っているので、「どうしたのだ」と通訳に聞くと、「シーさん(先生)は助平だ。女性には特別優しい」と言っているとのこと。国が違えばこれもいたし方なしというべきか・・・ それでもこの組み合わせに文句が出たわけではない。みんなほっとしたような顔つきなのである。若者たちは20にんほどが中心部隊で、10メートルほどもあるココ椰子の木を切り倒し、でこぼこ道に運んでくる。これは大変な仕事である。運んできた木をのこぎりで切り込み、砂の溝に埋めて3本並べ針金で締め、砂地に固定させる。2ヶ月かかってようやく完成した。 みんなよく働いてくれた。私は戦給品のタバコやお菓子などを持って、部落の中心にある大木の下に行き、毎日のように子供たちと遊んでいた。仕事のほうは通訳が中心になって進めてくれたので、私は何もすることがなかったのである。 たまの日曜日に街にでると、ばあさんやおばちゃんたちが私を見つけ、「寄っていけ」と言ってお茶などをサービスしてくれた。定安とは名前もよいし豊かな心をはぐくむところであると、今になっても感じている。 ある日、仕事場にいくと誰も来ていない。明日は隊のトラックが海口に荷物を取りに行くことになっているので、通りやすいように仕事場の道路を整理しておかなければならない。「これは困った」と理由を聞くと、「今日は大賭博が開かれるのでみんなそこに行っている。」とのことである。通訳とともに会場にいってみると、いるわ、いるわ・・・賭博場は満杯なのだ。 これはせっかくの楽しみを奪ってしまうことになるとは思ったが、私も責任があるので台の上に飛び上がり、大声を上げて、事情を説明し仕事に戻ってほしいことをお願いした。 するとどうだろう。200名ぐらいも居たであろうか・・・それがあちこちで固まってなにやら話して、最後に、一人残らず出て行った。その後を私も一緒についていくと、街の門を抜け、行き先は現場であった。全員で道路作業を始めているのである。こんな感動を受けたのは、私にとって初めての経験であった。もちろんこの日の仕事は1時間程度で早々に終わり、みんなは急いで帰っていった。私たちも帰り道、賭博場に寄ってみたら、日中あったことなど嘘のように明るい賑わいであった。何の気なしに入り口で思わず頭を下げた。その時、集まっている人たちが大声で叫んでくれた。 「シーさん、ご苦労さん!」 嬉しかった。戦争ではなく、日常の生活をともに暮らしているような、そんな感じであった。 初任地の人恋しかり いずれの過去にわれもすみしぞ 定安の主でを汚すことだけど、やはりこのことは書いておかなければならない。それは慰安所のことである。入隊後2ヶ月ほどして外出許可がおり、定安の街を友達と歩くことがあった。友達は私と違い、都会育ちで人生経験も多い人であった。別に街を歩いても行き所がなかったから、「慰安所でお茶をだしてくれるそうだから行ってみないか」と言われ、何の気なしに訪ねて行った。慰安所は土間にあずまやのような建物が建ち並び、椅子・テーブルが並んでいる。腰を下ろしお茶をご馳走になる。目の前に3メートル幅の細長い建物が何棟か並んでいる。2メートルおきにドアがついていて、そのドアに名札が下がっている。長屋である。そして各部屋の前に、何人かずつ兵隊が並んでいる。一番前の人はベルトをはずし、ズボンを下げている人もいて、私は初めてこのような光景を見て「汚い」と感じ思わず目をそらしてしまった。私も人間だ。でも戦地まで来てこんなことをするのか・・・とおどろいてしまった。 9月中旬、我が部隊に帰国命令がでた。これからどうなるか分からんが、とりあえず舞鶴に戻るのである。 そんなある日、現場に遺棄、いつものように子供たちと遊んでいると、「通訳と一緒に学校に来て欲しい」という、村長さんからの連絡が入った。学校へ行ってみて、いやあ・・・びっくりした。厚い黒板の大きなテーブルの上に、厚手のガラスが置かれていて、70キロほどもある黒豚の丸焼きがでんと、その上に乗っかっているのである。 聞いてはじめて分かったことだが、私のために送別会を村で挙げてしてくれるというのである。こんな若造を、どうしてこんなに大事にしてくださったのか・・・自分自身今もって分からない。 豚の丸焼きを前にして、 「シーさんは日本に帰るな。日本は今度アメリカと戦争をするだろう。そうなれば生きて帰れる保証はどこにもない。でもここに残っていれば、私たちが責任を持ってかばうことができる。だから、そんな危険なところに帰ることはない。ここに残りなさい。」 一人ひとりが、そういうことを、こんこんと息子を諭すように話してくれた。 定安の人たちの暖かい優しい気持ちが、心の奥までしみこむようで、私はその後、海南島の方に足を向けて寝られないような思いが、この歳になるまで続いている。 今にして思えばあの頃若りし 人の心をわからずにして去る 帰りなばアメリカ兵に殺されん ここに残れと言う人のあり 帰国せずこの地に残れと言いたもう 命にかけてもわれを守ると 小兵に別れの宴を施せる 村長 校長 丸焼きの豚 この国になぜ闘いを仕向けしか みんな仏に見える人たち 争いごとできぬ私のこの性は 父母にたまわれしわれが宝ぞ 昭和16年、大型貨物船で舞鶴港に部隊全員帰還した。帰還するとすぐ半月後にはどこかへ出立するとのことであった。行き先は分からない。でもなんとなく、これで最後という、暗黙の了解が全員にあった。隊員交代で、故郷行き2日間の休暇が出た。これが大戦の直前であった。何の連絡もせず家に着くと、父母の喜びは大変なものであった。 夜明けまえに何か懐かしい音がする。夕べ遅くまで話しをして休んだというのに、私が寝てから準備をして、今朝の餅つきになっていたのだ。朝食につきたての餅を食べた。4つほど食べてやめたところ、母は 「お前は餅が好きで、11歳のとき、11個、自分の歳の数だけ食べたんだから、もっと食べなさい。」と言われた。 こんな出来事を昨日のように思い出して書いているが、懐かしく、嬉しく、恋しく父母を思い出してしまう。 →その5 →その4 →その3 →その2 → その1、→著者紹介 → top page |