| 倉兼一二の人生記録 (シリーズで毎月月末に掲載します。青字は掲載者が勝手につけています。) 獏の戦争 その2 (2010/4/30掲載) → その1、→著者紹介 →その3 →その4 →その5 4.ラバウルからラエへ~緒戦の勝利もつかの間の夢 ![]() 10月末に出発するように言われていた。準備はほとんど完了し、いつ出発してもよいようになっていた。私は新兵の成績が良かったので海軍機関学校への入学を上官から勧められていた。しかし、私はお断りした。私は根っから他人と争うことが嫌いで、海軍に徴兵で入隊はしても、戦争をするとは考えてもいなかった。ただただ、自分 の生まれたところ、自分の生まれ育った環境、自分の父母兄弟、その中に埋もれて生きてきて、その中で争いごとが嫌いで、正直に生きるという性格、考え方が培われてきたのであろうと思っている。そんな私が戦争に行く。人間を殺し殺される戦場に行くといっても、どうしても実感が湧かなかったのである。 12月8日、真珠湾攻撃の報が伝わると同時に、我が隊にもウエーキ島攻撃の命が下った。 |
| 300名ほどの我が隊は、少数の残留部隊を残して出陣した。私はこの少数の残留組であった。ウエーキ島の戦闘は短期間に終わったが、我が方に20数名の戦死者を出した戦いであった。上陸地点にトーチカが並び、人影が見えないのに弾が飛び交い、これほどの戦死者を出したのだという。 我が工作隊の先任下士官、高橋上等兵曹戦士される。高橋上等兵曹は、戦地に赴いて初めての戦闘であった。それも志願して出かけたという。剣道の達人であり日本刀を常に携帯し、このときも弾の飛んでくる中、刀を振りかざし「進め!」と立ち上がったとたんの被弾であった。 |
<ウィキペディア> ウェーク(ウェーキ)島 ウェーク島は中部太平洋における重要な拠点のひとつであったため、日本軍は1941年(昭和16)12月8日の開戦と同時に攻撃を開始した。その後、日本はこの島を占領し、直轄地として「大鳥島」と命名した上で統治を行った。 その後も日本による占領・統治が続いたものの、1945年9月4日に、2日前の日本の連合国への降伏文書への調印を受けてウェーク島の日本軍も連合国軍に降伏し、連合国の1国であるアメリカによる統治に戻った。 |
| 12月末になり、平洋丸に乗船命令が出た。上陸地点はニューアイルランド、カピエングである。上陸までの間、幾度となく水上飛行艇による空爆が行われた。上陸決行は開戦1ヶ月目の1月8日。 真夜中に本船より上陸用舟艇に乗る。太平洋のまっただ中で、闇の中の移動である。大変ではあるが、このような訓練を繰り返してきているので難なく進んでいく。 上陸地点には大きな炎が上がっているのが見えた。日本機の爆撃によるものである。ぴりぴりと隊員たちの緊張が伝わってくる。 しかしその中で、私は船酔いをしていたのである。なんと呑気なことか。自分ながら呆れてしまう。 どうしたことか、敵兵の姿はなかった。ただ波止場に積んであった山のようなコプラに火がついて、こいつは簡単に消せるようなものではなかった。 華僑の人たちは待ちに残っていたが、白人の姿は見えなかった。みんな逃げてどこへ行ったかわからぬということである。同じ日に陸軍の部隊が、ニューブリテン島、ラバウルに上陸したと聞いた。そこでも何の抵抗もなかったそうである。 私たちは、1月半ばにラバウルに就いた。「東洋のナポリ」と言われるだけあって、狭い湾口、そして真っ青に澄んだ水の色に映る300メートルほど隆起した、裸のままの活火山の姿。すばらしい風景である。道路も整備され、幅20メートルもあろうかと思われる道の中央にマンゴーの並木が整然と並んでいる。 部隊全員とりあえず下船し、早速割り当てられた仕事に就いた。私の仕事はラバウル唯一の冷蔵庫当番である。これはよい仕事である。乳製品、魚肉の缶詰、牛肉もいっぱいあったが、オーストラリア兵が早々に退却していったので、臭いがつき始めていた。その鮮度を保つための氷造りが主な仕事であった。 |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9% |
| しかしこんな仕事が長く続くはずがない。我が隊はふたつに分割されることになった。第八十一海軍警備隊と第八十二海軍警備隊という名称である。八十一部隊はラバウルに残り、八十二部隊はニューギニア島のラエに向かうことになった。私はそのラエ行きの部隊である。 いつしか3月になり、船積みも終えて8日の朝フォン湾に無血上陸である。敵影はまったく見えない。ラエはラバウルから2日あれば到着する距離であった。輸送船のほかに駆逐艦3隻ほどが上陸を援護しに来てくれたが、なんらの抵抗もなく安楽な気分であった。 ところがその翌々日、敵機の空襲に見舞われた。空母の艦載機の来襲であった。この空襲で私たちの乗ってきた平洋丸は火災を起こしラエの海岸に乗り上げてしまった。舳先(へさき)だけがでている。荷物はほとんど陸上に上げることができなかった。主食の米も少ししか荷揚げすることができず、おかゆの毎日が続いた。 身ひとつ上陸したる翌日に 舟はそのまま沈み給えり それでもその後駆逐艦による輸送があり、増援もあり、ラエでの生活も落ち着いてはきたが、空襲が定期便のようにあるので、油断はできない。ラエには飛行場があるので、敵の第一の狙いはそこにあるようだった。 ラエの街に一年半生活していたが、街の住民にはひとりもあったことが無かった。この街は日本人以外居住していなかった。 この街にきても、砂田兵長と私こと、栗田上等兵は、氷製造係であった。百貨店の一部にある冷凍庫を毎日まわしに行く。氷の需要第一は病院である。ともかくマラリアが多いのである。丸一年間経過した頃、600人の兵の中で、一年間マラリアにかからなかったのは、たったの2名。その中の1名が私であった。 いつの間にか、ラバウルからの輸送は、食料は米だけという状況に陥っていた。はじめのうちは零(ぜろ)戦闘機が来ていたが、そのうち潜水艦による輸送だけになってしまった。 ドラム缶やゴム袋に入れて潜水艦の胴体にロープで縛り付け、潜水したまま入港し待機する。陸ではドラム缶の空き缶を5個ぐらいずつ組にして浮きをつくり、それを上陸用舟艇で引いて、闇夜に海上作業をする。その短い時間だけ潜水艦は浮上する。食料移動は3分間で終わらせるようになっていた。 このような輸送方法だから、米はすべて塩水に浸かっており、毎日が塩味のおかゆであった。おかずの味噌汁は、粉味噌に干しカボチャ、たまねぎ、大根切り干しなどであった。街が切れるとすぐジャングルに続いていて、取りや小動物など沢山いるようだが、捕らえる方法を知らないため食料にすることもできない。その上、頻繁に偵察機がやってくるものだから、猟などできたものじゃない。 そのうち、日本からの飛行体がやってきた。ところが、来てからというもの、敵の空襲は一日一日と激しくなった。隊員は飛行場のそばに住んでいた。夕方になると毎晩のように「ダンチョ節」の、だみ声が聞こえてくる。 「明日はおたちかお名残おしや、雨の十日も降ればよい」 「雨の十日じゃまだまだ足りぬ 槍の千本も降ればよい」 酒など一滴もないはずなのに、ラバウルから戦闘機につんでくるのであろう。 夜な夜なに途切れることなくダンチョ節 明日も誰かが空に散りなむ 機の下に敵機待ち居る搭乗員 日に日に散りて数の減りゆく |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%90% 日本軍はブーゲンビル島逆上陸支援のためトラックからラバウルへ栗田健男中将が指揮する重巡洋艦愛宕、高雄、摩耶、鳥海、鈴谷、最上、筑摩、軽巡洋艦能代、駆逐艦4隻からなる艦隊を派遣した。 シャーマン少将はアメリカ軍にとって脅威となるラバウルの日本艦隊に対する攻撃を命じられラバウルへ向かった。 11月11日にはアルフレッド・モントゴメリー少将 |
1年半ラエでの戦闘に参加した。戦闘といっても、じっと待つばかり。救援物資も武器弾薬も途絶え、その間の食事といえば、毎日しょっぱいお粥と乾燥野菜に粉味噌だけである。 ラエの街は海岸から400メートルほど平地が続き、そこから50メートルほどの高台となっている。そこから特有のジャングルである。道の西方面に一本だけであったと記憶している。 空襲が多くなったので、防空壕もそれぞれの部隊で作り上げていた。 時局は徐々に敗色を帯び、珊瑚海開戦で敗れた後、日本軍は陸軍 5,000人で、ポートモレスピーを押さえるために、ニューギニア東部半島の北部に上陸した。 上陸後スタンレー山脈を越えて、ポートモレスピーを背後から攻略すべく攻撃をかけたが、これも思うようにいかず、途中から追い返され、逃げるところもなく、上陸した海岸まで退却してきた兵隊を毎晩のように上陸用舟艇で移動させていた。 空襲は日に日に激しくなってくる。それえも、我が海軍戦闘機ががんばっている間はよかった。防空壕に入らず、敵機を追い越し撃墜するのを歓声を挙げて見ていたのである。 落としても落としても敵機の減ることはない。やがて我が戦闘部隊は燃料も届かなくなり、体当たりする戦闘機もあり、夜になると「ダンチョ節」の声も、徐々に悲壮感を帯びてきていた。酒だけは配給されていたようだが、一日一日と戦友がなくなっていく姿を私は胸が張り裂けるような想いで見つけていたものである。 国のため死ねと言われて逝った友 誰のためにか何のためにか 国益の言葉むなしきうつし世に みなの幸せならぬものかわ |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A8 太平洋戦争中の1942年に日本軍が占領した。ココダ道での戦いやブナ・ゴナの戦い、ワウの戦いでの敗北後、1943年中頃に日本軍はラエとサラモア周辺に撤退した。連合国軍の攻撃でラエも9月16日に占領された。 ![]() http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%97% E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%8B%E3%82%A2 ウィキペディア「パプアニューギニア」 |
| ガダルカナル・ブーゲンビル・ソロモン諸島の多くの占領地が次々と全滅していく。どうやら私たちの番のようである。航空隊の飛べる飛行機はすべて引き上げていった。壊れた飛行機も次々と整備されて引き上げていく。ついには飛行場は清掃された後のように、がらんとした空き地になってしまった。 私たち工作隊だけは、ラエの海辺の波止場にある大きな建物にいて、波止場関係の仕事がまだあったので、とどまっていたのである。 アメリカには1トン爆弾が完成しているという風評も飛び、そんなのを一発落とされたらひとたまりもないとよく話していた。 そんなある日、いつも通っている道端の草はらで大爆発が起きた。ものすごい地響きとともに土砂が、あたり一面に吹っ飛んだ。なんと直径30メートル、深さ10メートルもある大きな穴がこの爆発でできていた。 すわ1トン爆弾か?もしこれが私たちの宿舎にでも落ちていたら...と思うとぞっとしたものである。あとで真相が分かった。我が軍の250キロ爆弾が何個もあの草はらに転がしてあったというのである。それがイギリス軍の砲弾により、誘発されての爆発であった。なんとお粗末なことであろう... 司令部は高台の上にあった。通信台も見張り台も備えていた。私と砂田兵曹は毎日昼間は冷蔵庫で氷り作り、夜は司令部その他本部関係の発電機の運転をしていた。一般の宿舎は高台の下方の遮蔽物のあるところに、隠れるように建っていた。 私たちの発電機は、ガソリンエンジンの発電機が2台、高台下のジャングルの中に、3メートル四方の掘っ立て小屋を建て、そこに設置されていた。2本送電線が本部までつながっている。他に細い線を1本引いてあるのだが、これは夜空襲のとき、機械の音で空襲も分からぬ状態なので、本部から「機械室の電灯を消せ」という合図のためであった。 夜のジャングルとは不気味なものである。空襲は一段と激しくなり、ある時は防空壕に逃げ込んだとたんの爆発で生き埋めになったこともあった。幸いそれを見ていた人がいて、掘り出してもらい助かった。 救援物資などひとつも届かなくなり、その頃は毎日海水のおかゆ。口に入れるものであればなんでもいいという、ある日のこと。夜、発電機の当直で、その日は足立初太郎兵長と一緒であった。彼は「栗田、お前はタバコを吸わないが、吸えないのか?」と言われ、吸ったことはなかったけれど、意地を張って、「親父もおふくろも、尻から煙りが出るほど吸っていたもので、私ももちろん吸えますよ。」と言ってしまった。それじゃ...と差し出された一本を思いっきり吸い込んで、それから吐いた。ふらふらして倒れてしまった。意識不明、30分ほど頭は痛い、目は回るは...大変な目にあったが、私はそれ以来タバコには一切手を出したことはない。この経験も今になって考えると「よかったなあ...」と思っている。 |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 ニューギニア島のソロモン海側、マーカム川河口に面する小都市ラエと、その南方50キロに位置するサラモアは、日本軍の基地ラバウルと連合軍の基地ポートモレスビーとの中間に位置し、飛行場と港湾の適地であった。日本軍は1942年3月7日、ポートモレスビー攻略を視野に入れて前進航空基地の設営を計画し、南海支隊の一部と海軍陸戦隊とをラエとサラモアに上陸させた。 連合軍は3月10日、空母「ヨークタウン」「レキシントン」を基幹とする空母機動部隊をもってラエとサラモアの日本軍を空襲した。さらに、サラモア南西方60キロにある山間部の鉱山町ワウへ、オーストラリア軍独立1個中隊および志願兵中隊を基幹とする「カンガ・フォース」を空輸した。カンガ・フォースは日本軍のポートモレスビー作戦の間、サラモア方面へゲリラ的な攻撃を仕掛けていた。 1943年1月、ブナ・ゴナが連合軍の手に落ちると、日本軍では連合軍の次の攻撃目標をラエ・サラモア地区と予測し、ガダルカナル島の戦いへの投入が予定されてラバウルに集結していた第51師団を第18軍に編入して、横滑りでラエ・サラモア地区へ輸送することに決定した。ラエ・サラモアの防衛のためにはまずワウの確保が必要と判断された。ワウは小規模ながら飛行場を有し、カンガ・フォースが基地として利用するとともに、連合軍のラエ・サラモア方面への攻勢拠点となりうる可能性があったためである。 一方連合軍はソロモン諸島方面及び東部ニューギニア方面における本格的反攻に転じようとしていた。3月28日に発令されたカートホイール作戦は、ダンピール海峡の突破とラバウルの孤立化を最終目標とするもので、東部ニューギニア方面においてはラエとサラモアを最初の攻略目標としていた。この方面での連合軍部隊の主力にはオーストラリア軍第1軍団を基幹とする「ニューギニア・フォース」があてられた。 |
こんなこともあった。 いよいよこの地も最後か...と思うようになった、そんな時、ラバウルから駆逐艦が3隻、増援部隊ということでやってきた。みんな大喜びで、荷揚げに取りかかり私ももちろん手伝っていた。増援部隊は佐世保第五陸戦隊。みな若い兵隊ばかりであった。 船がはいってくると、今は大体15分くらいたつと、敵機がやってくる。このときもそうであった。ボーイング爆撃機と戦闘機が大挙してやってきたのである。今上陸したばかりの兵隊を見ると、なんと恐ろしいことに、海岸ぶちの道路で中隊長の号令で寝射の構えを取っているのである。 私はびっくりして退避豪から飛び出して「何をしている!みな殺されるぞ!逃げろ!」と怒鳴った。私の声は大きい。みな分かったのだ。それぞれに散って退避豪に入った。若い中隊長であった。飛行機が去った後中隊長と話しをした。 「私は初めて戦地に来た。ただ今まで教えられたとおりにやった。戦争とはこんなことなのだということが初めて分かった。ありがとう!」 相当数の戦闘機による銃撃であったが、このときはひとりとして怪我をするものがいなかった。不思議なくらいだった。 昭和18年9月に入り、空襲の激しさはことのほかであった。ある日、どうも電気室の辺りから煙りが上がっている。気になって見に行こうとすると、戦闘機から突然の銃撃に遭った。たったひとりでも人影が見えたら攻撃してくるのである。 そのとき聞こえたのが「天皇陛下万歳!」という叫びであった。その声の方に飛んでいった。倒れていたのは軍人ではなく設営隊の人であった。もうすでにこときれていた。コリア(朝鮮)の人であった。なんとも言いようがなかった。敵の行為を憎んだり、他人をうらんだりできるものならば大声で叫びたかった。なぜ同じ人間同士でこのようなことになるのか。こんなことをせねばならぬのか。やり場のない怒りがこみ上げてきたのである。 我が耳に陛下万歳聞こえしは ただ一度なりそれもコリアぞ ソロモンの玉砕次々登り来て 次ぎはラエかな黒き艦隊 ガダルカナル、ブーゲンビル、ソロモン諸島...次々と玉砕の報が伝わってくる。ここも武器弾薬ともにほとんどない。毎日激しい爆撃である。何を持って戦うのか... 9月12日か13日ごろであった。突如としてフォン湾が真っ黒になるほどの敵の艦隊が出現した。と同時に東南と北西から轟音が響きだした。陸上から挟み撃ち、海上からは艦砲射撃、空からは爆撃。ソロモン諸島はすべて玉砕。いよいよラエの番である。 そのときに我は何をか思わざむ 玉砕せよと命令のあり 目に見えぬ力の前にさらされて 修羅の港に消える命か 何のためこの世に生まれきしものか 母の顔みゆ故郷のやま 9月13日ごろと思う。ソロモン諸島と同じくラエにも玉砕命令が出た。私たちは何もすることがない。今はただ死を待つだけである。私は防空壕の中にとにかく2日間、ただただ模索していた。飲まず食わずに2日間、「人間とは何なのだ」「何のために生まれてきたのか」 いくら考えても私には解決できない。とにもかくにも防空壕から一歩も出られない。 とにかく死ぬことしか残された道はなかったのだ。 ところがどうしたことだろう。玉砕命令の出た2日後に、転進命令が発令されたのである。転進命令と言えば格好良いのだが、なんのことはない。退却せよとの命令なのだ。退却と言っても、人跡未踏のジャングルの中、それも4,100メートルのサラワケット山を越えて、1週間後に「シオという地点に到着せよ」との命令である。 私らごとき兵隊には何のことやら分からぬし、総勢どのくらいの兵隊がいるのかも分からぬまま、9月19日夜9時、全員ジャングルに入り、一斉いに退却することになった。 生きよという転進命令下されり フォン半島越えていくべし 行く先に何が待つやら知らねども 一縷の望みたぐりたぐりて 傷病兵が2,3百名はいた。司令命令で上陸用舟艇2隻に分譲させ、夜中にフォン半島を回って、目的地シオに送るのだとういう。この大きな湾には、夜になれば艦船が煌々とライトを照らし、湾内は昼間のように明るくなる。その中をどうやって突破するとういうのか。9月14日夜、傷病兵たちは3隻の上陸用舟艇にぎっしりと詰め込まれた。艦長も機関長も病人である。 鵜飼司令が波止場に来た。私には、とてもこの船に乗って目的地まで到達できるとは思えない。司令は艦長3名に作戦を伝えていた。「敵に襲われたらもうだめだから、明るいうちに、艦隊の真ん中を堂々と行き、沖まででたら敵の外側を回って目的地に向かえ。幸運を祈る。」ということだ。 どんなことになるものかと、丘の上から見ていた。これをまさに天佑というか神の助けというか、一切とがめられることなく沖に消えていった。翌朝には早くも無事到着の連絡が来た。よかったと思う一方「シオについても病院があるわけでもなし、大変であろうなあ」と思ったものだ。 傷病兵乗せたる船は一夜にて まさかに着きし目的地シオ フォン湾の敵艦埋まるただ中を 傷病兵の船進みゆく ![]() http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%BB% E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 ウィキペディア「ラエ・サラモアの闘い」 (その2終わり。次回は5月末日予定です。) |
|
サラモアが最前線となっている間、50キロ後方のラエには歩兵第21連隊第3大隊、歩兵第115連隊第2、第3大隊、および種々の後方部隊が置かれ、第41師団の歩兵団長庄下亮一少将が全体を指揮していた。しかし実働兵力は200名に過ぎず、傷病兵は1,000名いたが戦闘に耐えうるものではなかった。他に海軍の第7根拠地隊1,000名もいたが、機動的な陸戦が可能な要員は100名に過ぎなかった。 9月、連合軍はラエの攻略へ向けて一挙に攻勢に出た。9月4日朝、北アフリカ戦線から戻ったオーストラリア軍第9師団がラエ東方40キロのホポイに上陸した。さらに翌5日には南西太平洋方面連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー大将自らB-17に搭乗して督戦する中、ラエ北西20キロのナザブ平原にアメリカ軍第503空挺連隊とオーストラリア軍第7師団の一部が空挺降下した。サラモアの第51師団は退路を絶たれる危機に陥り、中野師団長も玉砕を覚悟した。だが安達軍司令官はこれを承知せず撤退を指示し、9月8日、中野師団長はサラモアからの脱出命令を発した。 ラエの日本軍は必死の防衛戦を展開していた。ラエ東方では、ブス川の急流を防壁として歩兵第115連隊第3大隊と海軍根拠地隊が布陣した。オーストラリア軍第24旅団の2/28大隊は9月9日朝にゴムボートでブス川下流の渡河を試みたが、急流と日本軍の銃弾に阻まれ一度は引き返し、午後に13名の溺死者を出しながらようやく対岸に渡った。しかし連日の豪雨で増水した川が障害となって補給が続かなくなり、さらに日本軍の激しい抵抗に遭って前進できなくなってしまう。第2工兵特別旅団がブス川への架橋を終え、オーストラリア軍が再度進撃を開始できたのは9月14日であった。ラエ西方では、日本軍は歩兵第115連隊の1個大隊程度が守備するのみであった。しかし、やはり連日の豪雨で飛行場が使用できない状態が続き、空挺降下した連合軍はなかなか前進へ移ることができなかった。 9月11日を過ぎると、サラモアから脱出してきた第51師団が徐々にラエへ到着した。ラエも保持困難であることに変わりはなく、日本軍は直ちにラエからも撤退した。連合軍は9月11日にサラモアを、9月16日にラエを奪還した。
|