| 倉兼一二の人生記録 (シリーズで毎月月末に掲載します。青字は掲載者が勝手につけています。) 「獏の戦争 その3」 →その2 → その1、→著者紹介 (背景)
獏の戦争 その3 (2010/6/4掲載) 5.ラエからシオへ~ジャングル、死の逃避行 9月15日、夜9時。一斉にジャングルに入り逃げ出す(転進)ことになっている。昨日は傷病兵たちが、あんな形での偽装行動で見事中央突破を成功させたのは、なんと言っても嬉しかった。 15日夕方、「西陣地より東陣地へ山砲の砲弾を運んでくれ」という命令が運輸隊に来たが、誰もいない。砂田兵長と私だけが残っていた。陸軍の兵隊はみなジャングルの中に入ってみたことがない。トラックも一台しか走れるのはなかった。今日は、とにかく9時までは徹底抗戦しなければならぬと言われている。西陣地と東陣地との距離は3キロしかないが、その間の状況はまったく不明である。街の中は無人。道路も砲撃の跡で穴だらけである。しかし命令とあれば仕方がない。砂田兵長と二人で出かけた。行くときはどうやら何事もなく、西陣地にたどり着くことができた。西陣地の敵は、迫撃砲での絨毯攻撃である。彼らは日本軍のように慌てたりしない。一定時間を置いて確実に撃ち込んでくる。その攻撃の合間を縫って二発入りの砲弾の箱を西陣地の兵隊に手伝ってもらって、ようやく積み込んだ。 東陣地に向かって走り出した直後のことである。突然敵の戦闘機が現れ攻撃を仕掛けてきた。ただ一機であるが、繰り返し繰り返し銃撃をする。時には車を止め、車外の木立に隠れ、あるいは深い木陰にじっと息を止めて戦闘機が去るのを待ったりした。こしてたった3キロの道のりだったが、20キロにも30キロにも感じられる距離を、ようやく走り抜いて東陣地にたどり着いたときには、ほっとしたものだ。 東陣地には山砲が4台設置されてある。知り合いの中島兵曹が素っ裸で鉢巻きを締め、仁王立ちになって号令をかけていた。もう夕暮れになっていたが、敵機が飛来する旅に、山砲を撃ち続け、敵に退却の気配を少しでも感じさせないようにせねばならぬ。 積んできた砲弾を下ろし終えて、私が防空壕に飛び込むと、そこには3、4人の負傷兵がいた。この数時間の間にやられたものらしい。睾丸に傷を負った兵隊の傷口にはハエが何匹も集まっている。薬は何もない。そのハエももう追えずにいるのだ。これから退却しようにもできないこの人たちはどうなるのであろうか。本部医務隊、通信隊は一番早く前線から引き上げている。われわれだけが9時ぎりぎりまで撃ち続けなければならないのだ。 あのときから60年以上たった今、どう思い出そうとしても、思い出せないことがある。それは、出発地点にみなと一緒に行かなかったことである。本当に最後まで砲弾を撃ち続けていたらしい。 ともかく、私が出発地点に行ったときには、すでに食料も分配し終わってみなが出かけるところであった。砂田兵長が靴下1足分の2つに一杯詰まった米を私に取っておいてくれた。だが乾パンはなかった。箱の中には形のある乾パンはなかった。私は人一倍食いしん坊である。仕方がない。空になった箱の中の粉を何箱も次々と、靴下に詰め込んで出発した。 生きよと転進命令くださるも 次々こだます手榴弾の音 七日にて着くと言いたる目的地 靴下二足に米と乾パン じめじめと又じめじめと パプアのジャングル戦友を奪うか 街の灯が明るく見える。敵艦隊の海上の明るさである。私にはわからぬが、何千人もの陸軍の兵隊が、このジャングルを移動中であるはずなのにひとりとしてその姿がみえない。陸軍の兵隊はやはり陸上では強い。海軍兵は陸に上がった河童のようなものだ。そうそう、ここまで書いてきて急に思い出した。集合に遅れた理由である。それは陸軍兵の背嚢の代用に使う袋を作らされていたのだ。掃除服をへその長さのところで切断し、紐で開かないように縛り、ベルト代わりの紐を足首のところで結んで、両肩にかけるようにする。これで一丁上がりである。米、乾パン、塩、マッチ、飯ごうを詰め込み、小銃一丁に手榴弾二発。これが全装備で、陸軍さんは一足先に出発した。9時ぎりぎりまで大砲を撃ち続け、敵軍に日本兵がいなくなったということを気づかせてはならない。大砲の音がやんだときが出発の合図であった。 私は砂田兵長と一緒に歩いている。敵は日本兵がいないことに気づかず、砲撃を続けている。3日間昼夜兼行で歩き続けた。誰一人として声を出すものはいない。そんな中で時折手榴弾の音が聞こえる。「ああ、またか・・・」と思っても、口に出すものはいない。つらくて精も根も尽き果て、動けなくなり、座り込む。最後には手榴弾を抱いて安全レバーを抜く。そして座ったまま、ちょっと硬いところにトンと当てると、大体7秒後の爆発なのである。濃緑のジャングルの中で、怪鳥の奇怪な鳴き声の中で、その音を聞く。 ![]() http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:% E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%AF%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E8% B6%8A%E3%81%88%E3%81%AE%E7%B5%8C%E8%B7%AF%E5%9B%B3.png ウィキペディア「サラワケット越え」 無言のまま3日間歩き続けて大休止になったとたん眠ってしまったらしい。目が覚めたときには、急傾斜の斜面に伸びた樹木の足元に引っかかるようになっていた。ともかくまだ生きていたのである。 パプアニューギニアのジャングルは、見たこともない聞いたこともない怪鳥の鳴き声に満ちていて、知らず知らずのうちに幻想の世界に引きずり込まれるような感じなのだ。マラリアと栄養失調。上陸以来1年半。まともなものは食べていない人たちである。死ぬことも生きることも意識の中にはない。ただ動けなくなり、朦朧とした意識の中で安全ピンを抜いてしまうのである。いくつ手榴弾の音を聞いたものであろうか・・・・ 死ねという死を強いられしいくさ場に 何のためにかわれは生まれし 戦友(とも)の意思いかに伝えむ今はただ いくさの哀れ人の哀れを 毎日毎日じめじめと湿度の高いジャングルの中をマラリアの蚊に追われながら歩き続ける。疲れ切って息も絶え絶えの状態が続く。これが皇国日本の軍人の姿か・・・ 20日間ぐらい歩いたであろうか。ある日、「栗田、俺はもうだめだ。もう一歩も歩けない。この辺で自害する。」と、一緒に生き抜いてきた砂田兵長が言う。 砂田兵長は私とは違い、豊かな生活をしてきた人である。軍隊に入るまでは横浜に住んでいた人。いつもきちんとした生活をしてきた人であった。こんな言葉が出てくるのも当然であろうと思われる。いつの間にか隊員もずいぶんと減少している。自分だってこれからどうなるものか分からない。ジャングルの中には、なにかあるだろうと思っていたのだが、まったく食用になるものはなかった。一週間で目的地に到着するというのは、「原住民の足で・・・」ということであったらしい。まだ半分ぐらいしか来ていないのかもしれないし、誰も詳しくこのあたりの地理を知っているものもいない。ただただ進むだけしかない。 暑い!着ているものは臭くなる。体を洗うこともできない。上着は肩のところから切り取ってしまった。気がつくと上半身、上着部分はすっかり切り取っていた。暑いこともあるけれど重いのだ。その1センチ、2センチの布の重さに耐えられないのだ。また次ぎの命を絶つ音が聞こえる。ジャングルにこだまする音に反応するものはいなくなった。 砂田兵長は、大木の下に差し掛かったところで、「俺はここで死ぬ。」と言って、どう説得しても動こうとはしなかった。私は小枝を集め、結わえ付け、日陰を作った。飯ごうに、最後の一握りの米を炊き砂田兵長のそばに置いた。砂田兵長はそれでもとても喜んでくれて、「俺の持っている米を持って行け。お前なら生きて帰るかもしれぬ。もし帰ったら俺の家に行って、俺のことを報告してくれ。頼む。」と言われた。私は後ろ髪を引かれる思いで、その場を離れた。 それからまた10日ほどたった頃だと思う。もう統一した動きはまったくなく、それぞれが勝手に歩いている。 「栗田、ちょっと来い!」と声がかかり、行ってみると、工作隊の偉い人たちが集まっている。真ん中にいるのは長田隊長である。長田隊長は56歳。わが部隊の最年長者である。今まで従者が2人いたが、ひとりは病気で死に、もうひとりは「何も食べ物がなくなったから何か探してくる」と行って出かけたままいなくなったという。「今度はお前が従卒をやってくれ!」というのである。いたし方がない。軍隊である。 |
http://ikotu.org/old/gyokusai_1.html 『玉砕の戦場』 ニューギニアは東経一四一度を境に西部は蘭領東インド、東部はオーストラリアの支配地域(国際連盟委任統治領)だった。日本軍は地名でいえば北岸のラエ、サラモア、ブナ、ギルワ、パサブアなどを占領した。いずれものちに、本書で扱う玉砕戦がおこなわれたところだ。 東部ニューギニアのすぐ北にあるニューブリテン島にも侵攻したが、その中心地が有名なラバウルである。 ソロモン諸島はイギリスの支配下(保護領)にあったが、日本軍はツラギ島やガダルカナル島、ブーゲンビル島などを占領した。 ギルバート諸島もイギリスの支配下にあったが、そこのタラワ島、マキン島などを占領した。 フィリピンやマレー、シンガポール、ビルマ、インドネシアではかなり激しい戦闘の末に占領したが、東部ニューギニア、ソロモン諸島、ギルバート諸島は、米英軍の本格的な部隊が配備されていなかったので、戦闘らしい戦闘もないまま占領したのだった。 しかし、やがてアメリカ軍は十分な反撃態勢を整えるとまずガダルカナル島を、次いで東部ニューギニアに襲いかかってきた。こうして、最初の玉砕戦がガダルカナル島と東部ニューギニアで繰りひろげられることになったのである。 1941/12/8 真珠湾攻撃 1942 1/23 日、ラバウル占領 3/8 日、ラエ・サラモア占領 5/7 珊瑚海開戦 6/5 ミッドウェイ開戦 7/6 日、ガダルカナル上陸 8/7 米、ガ島上陸 8/18 日、バサブア上陸 9/16 日、イオリバイワ占領 11/16 連合軍バサブア上陸 12/18 日、ウエワク・マダン占領 /19 日、フィンシュハーフェン占領 1943 1/20 日、ブナ地区撤退 2/7 日、ガ島から撤退 3/3 日輸送船団、ダンピール海峡 で撃沈さる 4/18 山本五十六大将戦士 9/4 連合軍、ラエ上陸 9/15 日、ラエ・サラモア撤退 9/22 連合軍、フィンシュハーフェン上陸 http://ikotu.org/old/firipin/ http://4travel.jp/traveler/ wanyamapori/album/ 10436296/ 「太平洋戦争 ニューギニア戦線をたどる 後編 08夏:ライオンベラーさんの旅行ブログ」 (抜粋) 1942年の8月に日本軍のポートモレスビー攻略部隊が上陸したブナ地区 (※日本で例えると、東京をポートモレスビーとしたときの新潟県柏崎付近)は、11月にその部隊が撤退してきたときはすでに戦闘状態にあった。 日本で例えると東京をポートモレスビーとしたときに、マダンは京都府の舞鶴あたり、ウェワクは島根県の松江あたりの位置(距離)になる。 ラエ(※日本では富山)から北部海岸へ危険な海岸地区を避けて転進(撤退)するためには、半島部分(※日本では能登半島)を横断しなければなりませんでした。 しかし、直線距離にして120kmほどのその区間は4千メートル級の高さの山々が連なっていました。 4千メートルといえば、富士山よりも高い高さです。 そこをひと月以上もかけて、飢餓と病気に苦しむ8500人もの将兵が越えていくことになりました。 |
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![]() http://en.wikipedia.org/wiki/Saruwaged_Range 6.凄惨!地獄の山頂 2,3日後のことである。司令から連絡があり前方へ行く、と。断崖とも見間違うほどの急斜面が、200メートルほどもあろうか、眼前にそびえ立っているのだ。仲間の工作隊員が3,4人呆然とした格好で突っ立っている。この急斜面を登らねばならない。そこで工作隊の中でも、まだなぜか余力のありそうな私に指名があり、司令をつれて上がってくれと言うのである。まさに力尽きるかどうかという瀬戸際の作業であったが、幸い陸軍の兵隊たちも、この急峻を越えていったと見え(あるいは原住民の人たちか?)、ちょっと見ただけでは分からないが、蔦(つた)や蔓(つる)で足場を作って行った跡があったのである。そこをたどりながらそれでもどうやら山頂にたどり着くことができた。山頂はすり鉢の底のようになっていて、周囲200メートルほどの広さである。10センチメートルほどのやせた樹木が這うようにのびていて、苔がこびりついている。道はない。とにかく寒い。周りを見回しても誰もいない。私と司令の二人だけである。さて今夜はどうして過ごそうかと思っていると、向こうから近づいて来る者がいる。陸軍の兵隊で伍長の肩章をつけている。彼は司令官の姿を見て声をかけてくれたのである。「このままここにいたのでは凍えしんでしまう。今夜は私がお世話しましょう。」 そう言って、自分が用意している場所に私たちを連れて行ってくれた。低いが比較的太い樹木の下に、小さなテントを3枚重ねて張り、風を防ぎ横になれるようになっていた。テントの中の木の根っこのところで、小さな焚き火をした。陸軍の兵隊はやっぱりすごいな・・・と感じたのを今でも覚えている。 夜が更けてくる。つぎつぎと後続の兵隊が上がってくるようだ。あえぎ声ながら叫んでいるのが聞こえる。自分の所属する隊を探しているのである。「主計隊どこだあ!」「第2中隊はどこにいる!」 陸軍の伍長さんは「返事をしてはいけません。返事をしたら自分たちも死ななければならなくなります。」 そう言いながらわずか30センチメートルほどの火を細々と焚いてくれる。私も少しでもお手伝いしようかと思い、小枝を取ろうと外に顔を出したら、風邪の冷たさで一瞬目が見えなくなった。疲れ切って、半袖同様の上着である。赤道直下と言っても4000メートルの山頂である。思わず首を引っ込めてしまった。 伍長さんはこんな話をしてくれた。「私は四国出身で南海支援隊に属していました。本当はポートモレスピーに上陸すべき部隊であり、護衛艦隊と出発したのですが、珊瑚海で連合艦隊に遭遇し、護衛艦隊はほとんど撃沈されてしまいました。輸送船だけは何とか逃れてラバウルに非難しました。そこで改めてニューギニア東部のオーエン・スタンレー山脈を越えてポートモレスピーに向かったのですが、今度は山で待ち伏せに遭い、部隊はばらばらになりながらも、それでも何とか北部海岸にたどり着いたのです。その兵隊たちを集めて、夜になると海軍の上陸舟艇でラエの街に運ばれました。長田隊長のことは、この間、私たちを何とかしてやろうと努力してくださった責任者としてよく存じ上げておりました。この山のことはよく知っていますので、私が責任を持ってお二人をお連れしますから安心してください。今私にできることは、これが限界で、みなを救うことまではできません。」 この伍長さんは、まさかのときのため、この道を調査する担当であったという。本当によくもまあ、このような人にお会いしたものである。何千人という陸軍の兵隊たちが歩いていったというのに、それこそ大事な山場で隊長と私は助けられたのだ。 その夜、この山頂は修羅の地獄だった。私たちは自分たちが助かるために、何もせずじっとうずくまっているだけであった。 翌朝、少し暖かくなってから出たほうがよいということで、日が昇ってしばらくしてからテントを出た。泥の中に銃が重なるように置かれ、焦げ付いている。銃を燃やして暖を取ったものらしい。見渡すと100人近い人たちが動かぬ人となっていた。 そんな中を足元に注意しながら、泥んこの中を降り口に向かう。次から次へと霧が吹き上げてくる。断崖のような急坂が200メートルぐらいはあるのだろう。ずっと続いている。私たちが見ている間にも、二人の兵隊が転落して谷に落ちていくのが見えた。 伍長に教えられたとおりに歩くと、道に足先を入れる足場が次々と下のほうに続いているのだ。私たちは持っている小銃、銃剣、隊長が持っている拳銃、手榴弾4発のうち、手榴弾2発を残して、全部捨ててしまった。それでも他に米と乾パンを持っている。この山下りは大変であった。荷物を背負い、まず私が先に足穴に足を突っ込み、一段降りたら隊長の足を持って、その穴に誘導する。もし隊長が足を踏み外したら、そのまま一連托生である。 その断崖を降りたところは、馬の骨のような尖った尾根の上であった。気を配りつつ神経を使って歩く。ここも足を踏み外したら一巻の終わりである。 こうして半日も歩き続けたであろうか・・・ようやく人心地のつくような場所になってきた。高原である。谷水が流れている。川気地の平地に大きめのテントが張ってある。谷水の中に人が立っている。よく見ると鵜飼司令・大隊長である。大隊長が何をしているんだろう・・・と思い、よく見ると甘藷(かんしょ)の太めの筋が落ちていて、それを拾っているらしい。先に来た陸軍の兵隊が住民の畑を荒らして盗んできた芋を、ここで洗っていた跡らしい。太めの筋が投げ捨てられてあったのを拾っているのである。従兵4人、皆倒れてテントの中にいるという。倒れた従兵に、何か口に入れてやりたいと芋の筋を拾っていたのである。その姿を見て、遠い父の姿を思い浮かべていた。 ~終戦後15年が過ぎた頃、鵜飼大佐にお会いすることができました。愛媛県宇和島の方です。子供さんと一緒に住んで折られました。静かな余生であったと思います。多くを語ることはありませんでした~ このときのことを思うたび、私の胸は痛くなる。私自身も完全に人間としての感性を失っていた。隊長の従兵で「食料がなくなったから先に行く」と言って出て行った兵隊が倒れていた。道路ぶちの短い草の上に3人ほどの友だちとともに、起き上がる元気もなく横たわっていた。あえぎながら助けを求めている。自分の食うものもない。目の前に餓死寸前の人がいても、自分の明日が分からぬ身にはどうにもならぬ。足を曲げ、手も同じように曲げたまま地べたに転がっている。5、6人の自殺遺体が転がっている。手榴弾で剥ぎ取られた臀部の肉がむき出しになり、さらに深々と削り取られている。このあたりは人食い人種の住むところである。削り取られた人肉はどこへ行ったのであろう。そういえば、このあたりの原住民の住居には、どの入り口にも人骨がぶら下げられていた。一番上は頭蓋骨、それから順番に小さくなって、それも左右に同じようにぶら下がっているのだ。 四名の従兵介護の大隊長 その優しさに父の面影 川の瀬に芋の筋根を拾いいる 大隊長が背中丸めて この部落 隊を作って通れと言う 人骨多く門を飾りて 死屍肉の くりぬき死体数ありて これ食う人の仕業なるかな 私は隊長とふたりで、再び歩き始めた。よくぞ生きてここまで来られたものである。だらだらと続くゆるやかな道を下りていくと、下のほうから原住民二人に袋を背負わせた陸軍の兵隊がやってきた。私たちの前に止まると、「ご苦労さまでした。これは士官用の食料です。」と言って、携帯食料を4個くれた。ひとり2個ずつである。私も隊長と一緒にいたおかげでもらうことができた。後からふらふらとやってくる兵隊たちが、「俺たちにももらえんか・・・」と聞くが、「命令どおりにするしか私にはできない。」と、断られている。生死ともに明日のことはわからない。ふたりでぼりぼり硬い食料をかじりながら歩いていく。 兵隊から「隊長、俺にも少し分けてくれんかね・・・」と言われ、「これをお前にやれば、俺は死ななければならない。お前たちは若いのだから元気を出せ!」とつぶやくように言っている。隊長の長田大尉は、この年56歳。最年長である。 畑の中に直径3メートルぐらいの草で囲った小屋があった。隊長は「とにかく疲れた。今夜はあの小屋に泊まろう」と言う。昔は日本にもこんな草小屋があちこちにあった。私は「もっと部落から離れたところのほうが安全だし良いと思いますよ」と言ったが、どうしても泊まりたいという。またそこへ、山頂で助けてもらった伍長さんたちふたりもやってきた。 それで4人で一泊することにした。 4人、膝小僧を合わせて座り込んだ。 小屋に入ってまもなくである。裸の原住民がふたり入ってきて何か話したが、何も分からない。ふたりはそのまま帰って行った。何のことかわからないが、いずれにせよ、隊長は歩けないので、そのまま泊まり込むつもりでいた。 しばらくすると、外から何かかけ声のような声が聞こえてきた。ちょっと外をみてびっくりした。小屋は完全に囲まれている。1メートル50センチぐらいの弓に矢をつがえたまま、歌うように音頭をとり、一歩一歩その輪を縮めてくる。これは大変なことになった。そのとき、機関銃があったので「撃つか!」と誰かが言った。しかし私の耳に突然、仏の言葉が聞こえた感じがした。―「目が喧嘩する」 私は何も言わず荷物を肩にかけ上を向いて外へ飛び出した。「空の遠くを眺めながらついてきてくれ」と叫んだ。なぜこんなことができたのか自分でも不思議であった。でも、それがよかった。全員、まっすぐ前を向いたまま、空の果てを見つめて歩いていったのである。不思議にも矢をつがえたまま道をあけてくれた。こうして1キロ以上歩いただろうか・・・後をがやがや言いながらついてきた原住民は、いつの間にか自分たちの住居へ帰っていったようである。今になって、あのときどうして助かったのかわからない。 原住民がみな立ち去ったことが確認されたとたん、隊長はうずくまって動けなくなった。伍長さんたちは「もう少し歩く」と言って先に行ってしまった。私たちはそのまま道ばたの草むらの中に入り込み寝込んでしまった。 翌日乾パンをかじりながら山を下り始める。あれだけ手榴弾の音が聞こえ、別に自殺者も多かったはずなのに、死体の数はそう目に入らなかった。確実に人数が減っていることは分かるのだが、それがどれほどの人数なのかは、まったく私たち下級兵レベルではわからない。散華した人たちは、人の目に触れないようなところで手榴弾を爆発させたのだろうか。 しばらく行くと陸軍の兵隊がふたり現れた。私に「塩を持っていないか?」と聞く。私はこぶしの半分ほどの塩を持っていた。彼らは「塩とこの豚肉を交換しよう。昨日部落の中で豚を見つけたので、肉にしたんだ」と言って、1キロほどの肉の塊をくれた。「これはうまくいったな・・」と思ったけれど、どうも気になる。隊長に「この肉は、どうも気になるんですが・・・」と言うと、隊長も同じ意見であった。一昨日の死体の姿が目に浮かぶのである。とうとうそのまま棄ててしまった。 塩欲しとわれに近寄る兵のあり 豚肉といえど何か気になり ひたすらにただひたすらに生きるべし 運命(さだめ)は天にゆだね生くべし ![]() http://en.wikipedia.org/wiki/Lae ラエ (その3終わり 次回6月末予定) |
そうした事情とは裏腹に、体は動物性蛋白を要求してくる。山やジャングルの中では、蛇やカエルも見当たらなかった。それでも雨の降ったあとに、蛇を発見することがある。目の色を変えて奪い合い、これを捕らえた兵隊は、それこそ金鵄勲章をもらったか、鬼の首でも取ったような喜びようであった。早速火を燃やし火の中に入れると、蛇は保身の習性からか丸く輪を作って焼けて行く。これを携行糧秣として飯盒に入れ、背負子に付けて歩く度に飯盒の中で「カラ、カラ」と音がするのも、蛇を捕りそこねた兵隊には心淋しく聞こえた。蛇やカエルにありついた兵隊は、元気をとりもどしたように足どりも軽い。食事の時に、食べるのが惜しいかのようになめている様子は、小児みたいでいっそあわれな気がした。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%AF% 中野師団長はサラワケット越えの経路を選択した。同行する部隊は、第51師団(歩兵第66、第102、第115連隊、工兵第51連隊、野砲兵第14連隊、輜重兵第51連隊基幹)、第41師団歩兵第238連隊の一部、南海支隊の生き残り(独立工兵第15連隊)、独立工兵第30連隊、海軍の第7根拠地隊、佐世保第5特別陸戦隊などであった。人数は第51師団が3900名、他部隊2100名、海軍2500名、総勢8500名であった。・・・・・・・・・・・日本軍は1日の行程を16キロと予想し、サラワケット山系を越えてキアリまで16日間と見込んだ。各人が持てる食糧は10日分が精一杯だったが、これを食い延ばせばなんとかなるという計算だった。9月12日、右進路工作隊(工兵第51連隊)と右縦隊第1梯団(海軍第7根拠地隊)がラエを出発、15日に第2梯団(歩兵第66連隊、他)、第3梯団(歩兵第102連隊)、収容隊(歩兵第115連隊、独立工兵第15連隊)、左進路工作隊(独立工兵第30連隊)、左縦隊(歩兵第238連隊、他)が出発した。・・・・・・・・・・・・・標高500メートルのケメンから次第に急な登りとなり、岩角や木の枝を踏み、草の根を掴んでよじ登った。落伍者が相次ぎ、後からくる者は落伍者の無残な死体に出会った。・・・・・・・・・・・・・・・・・登り最後の小集落アベン(標高3000メートル)から先は大断崖が連なり、手が届きそうな対岸に渡るのに丸一日かかった。腕の力が抜けたり足を滑らせて谷底へ転落する者もいた。助けることはできない。みな自分の体を支えるのに精一杯なのである。ラエ出発から既に2週間がたっていた。ほとんどの者は食糧が尽きかけており、途中の集落の畑から芋を盗み、あるいは木の芽や草の根を食べてしのいだ。栄養失調者やマラリア患者が山頂を超えられずバタバタと倒れた。 山頂は一面、熱帯高地特有の湿地帯[3]で、足下の泥濘の中に鬼羊歯や丈の低い雑木、緑色の苔が生えていておびただしい湿気と霧であった。名も知れない高山植物が華やかに咲き乱れていた。だが、その傍らには疲れ切り息絶えた死者の姿が延々と連なっていた。山頂ではみぞれ混じりの冷風が吹きつけ、夜に入ると気温は摂氏0℃近くに冷え込んだ。火を焚こうにも焚きつけがなく、遂に小銃の銃床を一丁壊して焚きつけとした。寒気をしのげなかった者は5名、10名と一団となって凍死した。 下りも安全ではなかった。高さ500メートルもある階段状の断崖では転落者が続出した。食糧も尽き、餓死者が多く出た。キアリから救援部隊を編成し、食糧と医薬品を担いで登ってきた。兵は何日か振りの飯と粉味噌と塩をもらい、ようやく生き返った。ラエ出発から3週間の10月5日にキアリに到着した北本工作隊は救援隊とともに引き返し、現地人ポーターとともにキアリからサラワケット頂上近くまで捜索し、落伍していた将兵の生存者を収容しポーターが担いで山から降ろした。最後の兵が現地住民に背負われてキアリに到着、野戦病院に収容されたのは11月15日になった[4]。・・・・・・・・・・・転進した部隊の中で、先行していた最初の2名がキアリに到着したのは9月23日であった。9月中に海軍の先行部隊65名も到着した。その後10月末までにキアリに到着した人数は陸軍5565名、海軍1762名と報告されている。うち987名は直ちに入院あるいは後送が必要とされた。 落伍者の人数は、参加者の回想によればアベンまでで800名、山頂付近で800名、下りで700名とされている。しかしラエを出発した人数と到着人数との差し引きは1106名となる。出発人数に検討の余地が存在するので、落伍者の人数は確定はできないであろう[5]。 第51師団将兵の苦難はこれで終わりではなかった。ようやく到着したキアリもまた連合軍に包囲され、フィニステル山脈を縦走してマダンへ脱出することになる。さらに、連合軍のニューギニア西部への上陸を受けて、第18軍は今度はセピック川河口の大湿地帯を横断して、決死のアイタペの戦いを挑んだ。第51師団の編成時の人員数は15,996名、終戦時の生存者は2754名であった[6]。・・・・・・・・・・・ 頂上は足下が凍結しておらず泥に足が埋まってぬかるみ摂氏3℃くらい、夜明けに零下1℃で薄氷が張った程度だったという当時の従軍兵士の回想が伝えられている[7]。海抜0mで夜間気温30℃なら海抜4500mでは約3℃、25℃なら零下約−2℃を中心とした気温変動。理科学地学生物学上は零下−20℃~−30℃ならば地表は緑のコケさえ困難な凍土や瓦礫のガレ場地帯になる。 ただし、実際の登山行動では多雨な地域で有る上に稜線であるために常に強風が吹き、更には熱帯用の防暑服の装備では体感温度としての気温は簡単に零下10-20度になる。登攀速度によって日没以降に高地停滞を余儀なくされた将兵は次々と凍死したという帰還兵の報告については疑問の余地は無い。 |
| http://www.kochinews.co.jp/rensai00/kataru03.htm 「語る夏語らない夏」 帰還は昭和十九年一月一日。岡田さんの体重は三十数キロになっていた。商船で大分・佐伯に帰り着くと、ニューギニア組は憲兵に銃で見張られ、潜水艦で広島・呉へ、さらに夜行列車で佐世保に運ばれた。負け戦であることを、世間に漏らさないためだ。 「話せば殺すと言われちょりましたけ。戦後も、怖うて、しばらく話さなんだです。口にしだしたのは、昭和二十五年くらいになってからですか」 終戦後の昭和二十年十月、岡田さんは故郷の吾川郡吾北村に帰ってきた。会いたかった母も弟もいなかった。二人とも満州(中国東北部)で病死したと知ったのは、その一年後だった。 「母も弟も犬死にですら。あしらもニューギニアではいずり回って、だれもかれも死んで、なんじゃったですろうか」 岡田さんはニューギニア戦線の生き残りだ。佐世保鎮守府第五特別陸戦隊司令部三千五百人の一員として海岸部のラエに駐留した。生きて戻ったのは二百九十三人だった。・・・・・・・・・・部隊の生き残り約千人は、さらに逃げた。サラワケット峠(標高四、一〇〇メートル)を越え、山向こうのキアリに逃れるためだ。一週間分の食料はすぐに絶え、草木の根で飢えをしのぎ、三十九日かけて着いた山頂は、雪山だった。 「一生言うな。ばれたら即日死刑だ」。兵士たちはそう言う上官に従って、「菊の紋章」の付いた小銃の柄をたき火にした。それでも夜が明けると、大勢が死んでいた。 「天皇家の菊の紋章を焼いたからと、火にあたらんのです。ぬくもりゃえいに。それで朝には、凍死です。みんな笑ったような顔になりますな。時々、谷底でダンダン!! ああまた一人、死によったと。手りゅう弾で、自害です」 岡田さんは手りゅう弾二個を胸に抱く格好をして、「私もマラリアにかかった時、死ぬつもりでしたけ」と淡々と話す。 |
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http://www.jyai.net/military/data-02/index.htm(帝国陸軍師団 連隊) 埋葬地は、アラスカ、硫黄島、印、沖縄、ガダルカナル島、グアム、豪、サイパン、ソロモン諸島、テニアン、東京、ニューカレドニア、ニューギニア、ニューヘブリデス諸島、パラオ、ハワイ、比、比セブ島、比パナイ島、比ミンダナオ島、比ルソン島、比レイテ島、ビスマルク・ソロモン諸島、ブーゲンビル島、マーシャル諸島、マリアナ諸島、モロタイ島、蘭領ニューギニア、水葬(海などに埋葬されたケース) http://ikotu.org/old/gyokusai_3.html 玉砕の戦場 (国際NPO 日本國戦死者遺体収容団) 第1章 ガダルカナル島とブナ地区(東部ニューギニアの戦い)・タナンボコ島 : 最も将兵が多かったタナンボコでは、約六〇〇人のうち生存者はわずかに三人だった。狭い島だから逃げ隠れできなかったのだ。タナンボコ島の戦闘が“日本軍最初の玉砕”と称されるわけがここにある。アメリカ軍の記録では、ツラギ・ガブツ・タナンボコ三島の捕虜は二四人、対岸のフロリダ島に脱出した者約七〇人であり、脱出者の大半はアメリカ軍の残敵掃討で戦死した。 ・ガダルカナル : 第一二四連隊の生き残りはカミンボに集結し、最後の駆逐艦を待ち、辛うじてガ島を脱出した。・・・結局、ガ島上陸の陸軍総人員は三万一四〇〇人というから戦死は約二万一六〇〇人という計算になる。第一七軍宮崎周一参謀長から田辺盛武参謀次長宛報告によると、戦闘による純粋の戦死者は五〇〇〇から六〇〇〇人と推定され、一万五〇〇〇人前後が餓死であり、飢えによる体力の消耗が原因で病気(栄養失調症、熱帯性マラリア、脚気、下痢など)や負傷を克服できなかったと推定される。一方、ガ島戦でアメリカ軍が被った損害は戦死約一〇〇〇人、負傷四二四五人だという。 ・バサブア :戦いのあとの模様を、オーストラリア軍の戦史は次のように書いている。「戦闘が終わり日本軍陣地を点検しうるようになってみると、人間というものが、どうしてこんなひどい環境に耐え忍ぶことができるのか、しかも生存しうるのかと疑わざるを得なかった」また部隊と同行したオーストラリアの新聞記者は次のように描写した。
・ギルワ :ギルワを脱出したのは海軍部隊もふくめて約五〇〇〇人前後はいたようだ。クムシに到着完了という二月七日(一九四三年)で、約三四〇〇人だったというから撤退中に一五〇〇~一六〇〇人程度が落伍し、命を落としたことになる。ほとんどが行き倒れに近い。ある将校(南海支隊山砲兵大隊長穂積鎮雄中佐)は途中で激しい下痢となり、部下の「背負ってでも退がります」という言葉を振り切り、拳銃自決した。クムシに早めに到着したなかで、引き返して患者を収容する任務を与えられたグループもいた。軍医が同行し、肩を貸しても歩けない患者はその場で注射により殺した。・・・・ 参考: 平時には約100人が「中隊」。 中隊が3~4集まれば「大隊」。 大隊3つと機関銃隊ほか二つの中隊で「連隊」。 |
2010/6/4 →top page